終章 凪の海

  常喪二六年七月一〇日(金) 晴 帰りのバス 一七時五五分 面会予定 明日二件(香月様/竜胆のお家)

 朝は、六時に覚めた。

 白湯を一杯。旅館の急須を借りて、湯呑みに注いで、窓の桟に置いて冷ました。手帳を開いて、明日の面会の刻限を確かめた。香月は午後、竜胆の家の人は夕方。返す便箋の束は、鞄の内側の口に入れてある。帰りのバスは、一七時五五分。それを逃すと、次は終バスになる。逃さない方の余白に、彼女は鉛筆で印をつけた。

 浜へは、朝のうちに降りた。

 引き潮の時刻で、砂は固く、歩きやすかった。人は、遠くに釣りがふたりいるだけだった。彼女は波の届かない場所に鞄を置き、その上に手帳と花帳を重ねて、波打ち際まで歩いた。

 点呼は、立ったまま行った。

 業務の声で、順に呼んだ。竜胆の子。番号しか知らないもの。花の名で覚えているもの。呼ばれた重さが順に目を覚まし、確かめられ、また眠っていく。十一年の帳面の、いちばん新しい頁まで呼んで、最後にひとつ、残した。

 蓮見凪。八歳。

 胸骨の裏と、両腕。座りは、深い。異状は、ない。

 それから彼女は、誰もいない海に向かって、申し送りをした。

 「申し送ります」

 波が、一度、届いて、引いた。

 「捜索は、昨日をもって、終了しました。発見によるもの、では——ありません。確認は、行いませんでした。今後も、行いません。……探すことを、やめました」

 言い終わらないうちに、来る。

 沖から雨が来るときの速さで、来る。新しい、と分かる。五千の石のどれとも違う。査定されたことがなく、等級がなく、番号がなく、キロ数がない。誰の掌も通ったことがない。世界のどの窓口も、これを受け付ける書式を持っていない。彼女のところにだけ、降る。二年間、彼女がどれほど深くても届かなかった場所に、まっすぐ、降りてくる。

 悲しかった。

 二年ぶりに、言葉のほうが、体に追いついた。彼女は波打ち際に立ったまま、それが降りきるまで、動かなかった。降りきったものは、石の座り方をしなかった。もっと軽くて、もっと重かった。帳簿の欄は、最後まで見つからなかった。見つからないことが、この世界で、これがだれのものかの、唯一の証明だった。

 昼は、防波堤の日陰で、宿の握り飯を食べた。午後は、浜を端から端まで、二度歩いた。くらげがひとつ、浅瀬を泳いでいるのを、長いあいだ見ていた。天井の端から端まで、ゆっくり。往復して、沖へ出ていった。

 夕方になって、風が落ちはじめた。

 海辺の町で育った者は、この時刻の名前を知っている。嵐でなくても、風のある日でも、日の落ちる前に一度、風と波が申し合わせたように静まる。水面が、空をそのまま持つ時間。世界がその名前を悪くする前から、ここにあった時間。

 彼女は、波打ち際に戻った。

 きょうの悲しみは、何キロ?

 毎朝の食卓の、監督官の声で、彼女は自分に訊いた。それから、答えた。十一年、この遊びの返事を、あなたに借りたままだった。

 「——量れません」

 と、まず業務の声が言った。言ってから、ほどけた。

 「きょうのはね、キロじゃないの。きょうのは……海、いっぱい」

 テレビきんし、と言う声は、しなかった。潮の匂いだけがした。彼女は濡れるところまで一歩出て、立ち止まった。風が、最後にひとつ、髪を動かした。

 凪、と呼んだ。返事のかわりに、風がやんだ。