第三十章 あと0日
常喪二六年七月九日(木) 晴
朝、台所の日めくりは、最後の一枚になっていた。
画用紙に、鉛筆の字。あと0日。丸い、勢いのある0だった。ほかの数字は年ごとに書き方が変わっていったのに、この0だけは、六八三枚の最初の日に、最後の一枚として書かれたきり、八つのままだった。
彼女はそれを、めくらなかった。めくると、次がない。日めくりは、この一枚で、仕事を終えることになっていた。ゼロの日に、やめる。ゼロの日に、海。
娘が十歳になるはずだった日だった。
協会の窓口は、九時に開いた。
彼女は、認可証を窓口に置いた。停止中の認可を、返上します、と言った。窓口の職員は、書式を二度探した。停止された認可を、わざわざ返しに来る人間は、いなかった。停止は、処分だった。返上は、意思だった。同じ紙が窓口を渡るのでも、渡る向きが、違った。
「理由の欄は、どうしますか」と職員は言った。「一身上の都合、で、よろしいですか」
「約束の履行、と書いてください」と彼女は言った。
職員は、すこし迷って、そのとおりに書いた。十歳になったら、やめてね。口約束は、二年おくれて、正式の書式に載った。約束の相手の欄は、どこにもなかった。なくても、約束は約束だった。
帰り道の途中で、来る。
胸骨の裏で、潮が満ちてくる。歩道の真ん中で、彼女は立ち止まる。街路樹の影が、足元で揺れている。誕生日が、体の中で、目を覚ましている。十歳の。なるはずだった。九十六悼が、いっせいに、岸を探している。彼女は木の幹に手を置いて、待つ。抗わない川底のやり方で、待つ。石たちが、順に、深く座り直していく。座り直して、それきり、静かになる。
通行人がひとり、大丈夫ですか、と訊いた。大丈夫です、と彼女は答えた。長く抱えている者の答え方だった。
発火の日付を、それが娘の誕生日であることを、彼女は誰にも報告しなかった。報告すれば、それは所見になる。所見は、認証の材料になる。共鳴試験を、彼女は二度と受けないと決めていた。確認は、市場の言葉だった。市場の言葉で確かめられることは、もう、ひとつも残っていなかった。胸と両腕の座りだけが、確かめなかった答えの、かわりにあった。かわりで、足りた。足りる、と決めたのは彼女だった。決める仕事だけは、誰にも、どの書式にも、渡さなかった。
昼すぎの電車で、海へ向かった。
駅の改札の前に、柏木が立っていた。
「……ついて行っていいか、とは訊かない」と柏木は言った。「ここまでにする。ここまでは、来たかった」
切符も買わずに、改札の外に立っていた。八年会わなかった男の、二年かけて覚えた距離の取り方だった。
発車まで、二十分あった。ホームのベンチに、並んで座った。
「凪の話を、してくれないか」と柏木は言った。前を向いたままだった。「八年ぶんの。……俺は、何も持ってないんだ。三悼と、赤ん坊のころのことだけだ。それだけ握って、これから先を生きていくには、俺の手は、大きすぎる」
彼女は、話した。
コロッケは半分にすること。嘘をつくと語尾が丁寧になること。悲しみの天気予報のこと。三キロこえたら、テレビきんし。監督官の顔で麦茶を注ぐこと。牛乳のフィルムのこと。きょうも、やぶれなかった、の報告のこと。二十分に入るだけの八年ぶんを、申し送りの順で、正確に話した。
柏木は、聞き終えて、長く黙った。それから、言った。
「かわりに、って言い方も、変だけどな。……俺のも、置いていく」
赤ん坊のころの凪は、夕方に泣いた。決まって夕方だった。それで、と柏木は言った。泣き方に、癖があった。
「泣きやむ前に、いっぺん、息を吸って——止まるんだ。二秒か、三秒。嵐の真ん中で、ふっと、風がやむみたいに。それから、けろっと泣きやむ。……名前のとおりだな、って、あのころ、あいつを抱きながら思ってた。おまえがつけた名前のとおりに、泣きやむ子だなって。言えばよかった。言わないまま、出てった」
最初の言葉は、まんま、でも、おかあさん、でもなかったという。
「パン、だった」と柏木は言った。「朝の食卓で、いきなり、パン。俺とおまえで、顔を見合わせた。……覚えてるか」
覚えていなかった。乳児期の記憶は、彼女の中で、二十ヶ月の摩耗と五千の石の下になって、輪郭が薄れていた。薄れた場所に、いま、他人の掌から渡されるように、朝の食卓がひとつ、戻ってきた。パン。顔を見合わせた。そうだった。そうだったかもしれない。そうだった、の方を、彼女は受け取った。
八年を渡して、乳児期を受け取った。等価かどうかは、量る者がいなかった。量る者のいない交換だけが、この二年で、彼女の手元に残ったものの全部だった。
発車のベルが鳴って、彼女は立った。
「三悼です、って、法廷であなたは言いました」と彼女は言った。「少ないことと、要らないことは、違います、って。……あれは、この二年で私が聞いた中で、いちばん正確な査定でした」
柏木は、何か言おうとして、言えなくて、頭を下げた。改札の外で、深く、長く。電車が動き出しても、窓の中でその姿勢のままでいるのが見えた。
海辺の町には、夕方に着いた。
母が生きていたころの、彼女の育った町だった。浜に近い古い旅館を、ひとつだけ、電話で押さえてあった。荷物は、小さい鞄がひとつ。鞄の中に、手帳と、花帳と、便箋の束と、0えんのレシートを挟んだ頁。
浜へは、行かなかった。今日は、行かない。防波堤の道から、暮れていく水面だけを見た。風のある夕方で、波頭が、遠くまで細かく光っていた。凪の時間は、まだ来ていなかった。
旅館の窓から、夜の海の音を聞いた。娘は一度も、この海を見ていない。連れてくる前に、683日が尽きた。胸骨の裏と両腕で、九十六悼が、波の音に合わせるように、静かに座り直した。海の音を、彼女の体を通して、聞かせているのだと思うことにした。思うことにする、も、決める仕事のうちだった。
台所の日めくりは、家に置いてきた。あと0日のまま、めくられずに、仕事を終えた。
あと、〇日。