第二十九章 無価

  常喪二六年七月三日(金) 曇 メイ 気配なし

 その週、彼女の郵便受けには、書式だけが届いた。

  通知 対象資産(CL-1a)は、保持者の受諾撤回により引渡不能となりました。

  倉荷証券の権利行使は、当分の間、停止されます。

 引渡不能資産。倉庫の街の言葉だった。証券は在る。現物も在る。あいだの通路だけが、消えた。娘の悲しみを紙に変えていた仕組みは、紙と悲しみをいつでも引き換えられる、という約束でできていた。約束が死ぬと、紙は、紙になった。

  通知 CL-1aの上場を廃止します。

  通知 GX50構成銘柄から除外します。理由 流動性の喪失。

 天気予報の画面から、メイの欄が消えたのは、水曜の朝だった。

 気配なし、と最後に表示が出て、それきりだった。二十ヶ月、毎朝そこにあった数字が、なくなった。娘は、五千二百万円ではなくなった。いくらでもなくなった。市場は、値段のつかないものを扱う言葉を、ひとつしか持っていない。無価。

 経済面の隅に、短い記事が出た。認証寸前の中断は前例がなく、真正性への疑義が拭えない——原悲者自身が確認を放棄した資産に、物語プレミアムは成立しない——プレミアムは剥落し、疑義だけが残った、と記事は書いた。書いてあることは、ぜんぶ正しかった。正しさの向きだけが、あの部屋の反対を向いていた。

 彼女は、メイを買えるようにしたのではなかった。買う、が成り立つ場所ごと、なくしたのだった。値札を下げたのではない。値札の掛かる釘を、壁から抜いた。価格は殺せない。殺せるのは、流動性だけだ。二十ヶ月この世界に払わされてきた授業料の、それが最後の頁だった。

 香月商会の清算公告は、金曜の官報に載った。

 蔵のものは、ひと月かけて売られていくという。買い集めた証明書の束が、一枚ずつ、他人の手に散っていく。電話をくれた香月の声は、思っていたより、静かだった。

 「債権は、蔵で払えます。メイは——無価ですから、債権者は、要らないそうです」と香月は言った。「値のつかないものは、売買の書式に載りません。載る書式が、ひとつだけあります」

 贈与契約書は、一枚だった。売買契約書の何十分の一の薄さで、娘の全部が、そこに載った。

  贈与者 香月商会 受贈者 蓮見汐里 対価 なし

 「条件を、口頭でひとつだけ」と香月は言った。「面会に、来させてください。月に一度。……いえ、季節に一度でいい。手ぶらでは行きません。野菜くらいは、提げていきます」

 野菜、という言葉を、この男がどこで覚えたのか、彼女は知っていた。月に一度、野菜を提げて妻の悲しみに会いに来る老人の話を、いつか、この男にしたのだった。買い集める側だった男が、通う側の書式に、自分から移った。

 「どうぞ」と彼女は言った。

 法の側の道具立ては、三枝が作った。

 移対いたいの庁舎の、狭い会議室だった。立件の証拠物件——流出ロットと推定される個体——の保管について、と三枝は書式を読み上げた。推定される、の四文字は、判決の書式から来ていた。法は最後まで、メイが凪だと言わない。言わないまま、保管先だけを決められる。

 「証拠物件の保管官に、原悲権者を指定する。公務指定につき、生涯線量の枠外とする。……前例は、ありません。前例がないことは、違法とは違います」

 「証拠室は、人間である」と彼女は言った。

 「あんたに言われた覚えはない」と三枝は言った。「言ったのは、俺だ」

 判を押すあいだ、三枝は財布を机に出していた。三十年もののその財布から、古い紙を出すのかと思ったが、出さなかった。出さずに、財布ごと、しばらく掌の下に置いていた。国家に喪を没収された男が、国家の書式で、他人の喪をひとつ、返す側に回った。同意書の話は、どちらもしなかった。しないことが、いちばん正しい扱いだった。

 体の側の道具立ては、書式のない人たちが作った。

 最初に来たのは、小田島だった。月曜の面会日ではなく、ただの木曜に、野菜を提げて。

 「あんたの体は、いま、日本でいちばん重い」と小田島は言った。「わしの体は、あのひとのぶんが出ていったきり、二十年、がら空きだ。……ひとつ、寄越しなさい。どれでもいい。わしは受ける。受けるのは、ただだ」

 移転には、時間がかかった。座卓を挟んで、掌と掌で、夕方までかかった。石がひとつ、彼女の左の肩から出て、老人の、がら空きの場所に座った。線量の帳簿の上では、小田島の残り枠が、その分だけ、黙って減った。減った枠は、戻らない。老人はそれを、勘定に入れる素振りも見せなかった。

 「妙なもんだ」と帰りぎわに小田島は言った。「二十年ぶりに、重い。重いのは……悪くないな」

 瀬川は、翌日に来た。挨拶のかわりに、掌を出した。

 「営業じゃないんで」と瀬川は言った。「あんたには貸しがある気がするんで。八十四悼の。……利子はいいんで、元本だけ、返させてもらうんで」

 それから、花の縁者たちが来た。

 花帳が、道案内になった。竜胆の子。五つ。川。母のぶん。——五十年前に熊谷が引き受けた悲しみの、出どころの家を、帳面の日付と土地の記憶で辿ると、いくつかは、まだ辿れた。彼女は手紙を書いた。お預かりしているものがあります、とだけ書いた。

 来た人たちは、みな、最初は玄関で立ちすくんだ。五十年前に手放した祖母の悲しみ。四十年前に売った兄のぶん。戻ってくるとは、思っていなかったものたち。全員が受け取ったわけではない。受け取れない事情の人が、半分いた。責める筋合いは、どこにもなかった。受け取った人は、受け取るとき、決まって同じことを訊いた。

 「これ、うちの、ですか」

 「熊谷さんは、竜胆の子、と呼んでいました」と彼女は答えた。「五十年、命日に、花を挿していました」

 確かめる方法は、もうない。摩耗と、歳月と、匿名の壁。それでも受け取る、と決めた人の掌は、みな、ゆっくり温かくなった。確からしさではなく、花の名前が、受け渡しの証書だった。

 線量は、戻らない。だが、荷は、分けられる。

 彼女の帳簿の累積の数字は、一悼も減らなかった。減らない数字の下で、体だけが、すこしずつ、あの夜の前の深さへ戻っていった。潮が引くのではなかった。潮を、みんなで、汲み分けたのだった。

 メイの移転は、七月の最初の日曜だった。

 柚木が、付き添いの職員と一緒に、家まで来た。白い部屋の外で会う柚木は、小さく見えた。移転は、座卓を挟んで、丸一日かかった。九十六悼が、掌から掌へ、水位の速さで動いた。娘の悲しみは、胸骨の裏の、二十ヶ月あいていた場所と、両腕に、順に、座っていった。

 座り方が、記憶と違った。

 もっと尖ったものを、彼女は覚えていた。いま来たものは、角がすこし、丸かった。十九人の手と、六度の組成と、倉庫と、歳月を通った丸さだった。

 「畳み方が、変わってるんですね」

 と、彼女は言った。誰にともなく、口から出た。買い戻した悲しみは、預けた着物と同じだよ。畳み方が変わってる。——警句の主は、もういない。警句だけが、当たりに来た。

 「あの」と柚木が言った。「差し出がましいことを、ひとつだけ。……畳み方は、変わっていました。でも、畳んであったんです。ずっと。ぐしゃぐしゃに丸めてあった日は、私の知る限り、一日もありません」

 夕方、宇津木が来た。

 弔問のような顔で上がって、部屋の隅の、毛布を掛けた四角いものの前に、座った。毛布を、外していいか、と目で訊いた。彼女は、うなずいた。

 中古の電子キーボードは、二年ぶりに、電源が入った。

 宇津木は、しばらく鍵盤の上に両手を置いて、それから、弾いた。

 子どもの練習曲だった。三小節目で、つっかえた。つっかえて、止まって、すこし戻って、また同じ場所でつっかえた。指の正確さが、それが偶然でないことを言っていた。千の悲しみを聴いてきた耳が、九時間かけて写し取った、娘の癖だった。楽譜のどこにも書いていない、世界でこの男しか弾けない、間違いの譜だった。

 つっかえたあとの沈黙まで、弾いた。

 彼女は台所の椅子で、沈黙を数えた。ひとつ。ふたつ。二年ぶりに、数える仕事が戻ってきた。

 桐山遼子を、彼女はその週、一度だけ見た。

 テレビの経済番組の中でだった。保釈中の、短いインタビュー。記者の後ろの画面に、CL指数の急落のグラフが映っていて、桐山は、記者ではなく、そのグラフを見ていた。愛は偏在するが市場は遍在する、と言った人の顔から、遍在の方が、抜け落ちていた。何かを初めて失った人の顔は、ああいう顔をしている。彼女はそれが分かって、分かっただけだった。悼む場所は、彼女の体のどこにも、まだなかった。

 香月の最初の面会は、移転の三日あとの、水曜の夜だった。

 ねぎと、茄子と、大きすぎる南瓜かぼちゃを提げて、香月は玄関に立った。座卓にお茶をひとつ置いて、彼女は話した。約束したわけではなかった。ただ、この男が、部屋のいちばん薄暗い場所を選んで座ったからだった。

 停電の夜の、くらげの影絵の話をした。天井の端から端まで、ゆっくり往復した、くらげ。笑いが止まらないまま、どちらが先か分からないうちに眠った夜。分割室の中継には載らなかった、値段の話が一度も出てこない、ただそれだけの夜。

 香月は、掌を借りに来た男ではなかった。九十秒の試泣も、しなかった。ただ聞いて、聞きながら、泣いた。五十二年、他人の悲しみを通してしか出なかったものが、他人の娘の、ただそれだけの夜の話で、出た。買い集めたどの証明書も、この男に一度もくれなかったものだった。

 夜半まで話して、彼女は気づいた。

 娘の悲しみは、彼女の胸と両腕にいて、一グラムも軽くなっていなかった。軽くならないまま、持ち方だけが、変わっていた。ひとりで担ぐ荷と、囲んで座る荷は、同じ重さでも、同じ荷ではなかった。

 のこり、一日。