第二十八章 分割の立会

  常喪二六年六月二八日(日) 晴 第一六八回四十九日決済 メイ六七三、〇〇〇円/悼

 分割室は、白い部屋のいちばん奥にあった。

 中央に寝台。寝台のまわりに、白いテープで、立ち位置の印。壁ぎわに、番号札の一から十二。決済の日は曜日を持たないので、日曜でも、全員が揃った。債権者団の三人。管理法人の立会人。桐山の会社の法務がふたり。香月。三枝。中断要員を兼ねる熟練の受け手がふたり、寝台の左右に。部屋の隅の三脚に、中継のカメラが一台。画面の先に、何人いるのかは、誰も言わなかった。

 柚木は、寝台のそばの椅子に、喪服で座っていた。

 手順は、立会人が読み上げた。分割に先立ち、目録確定のための共鳴試験を行う。原悲者の同意により、接触型で実施する。原悲者は保持者の背に掌を当て、係の合図で、ゆっくりと離す。

 彼女は、白手袋を外した。外す手を、カメラが追った。

 柚木の背中は、あたたかかった。熱があるのではなかった。長く抱えている人の背中の温度だった。

 「始めます」と係が言った。

 掌の下で、遠かったものが、近くなる。

 水位の上がり方で、来る。胸骨の裏の空いていた場所が、先に満ちて、それから両腕へ。八、と誰かが読み上げる。一〇。一二。数字は部屋の言葉で、掌の下にあるものは、部屋の言葉を知らない。一四。掌の下で、雨上がりの夕方がある。ソースの匂いのする角がある。同じ場所でつっかえて、止まって、すこし戻る。一七。彼女の膝が、寝台の縁に触れる。一九。もう少しで。あと少しで——

 二〇へ、滑り上がっていく。

 二〇から先は、認証だった。市場の物差しが、娘に、本物、と判を押す。押された判は、そのまま値札になる。二十ヶ月、確かめたくて歩いてきた。その答えを、この部屋の書式で受け取ることだけは、できなかった。

 彼女は、掌を離した。

 裂け目は、音を立てなかった。満ちかけた水位が、途中で断ち切られて、断たれた面が、彼女の胸の内側を縦に走った。同じものが、柚木にも走ったのが、見えた。喪服の肩が、一度、大きく波を打って、柚木の顔に、痛みが走った。彼女の掌が作った痛みだった。彼女は、それから目をそらさなかった。そらさないことしか、できなかった。

 「……試験の中断です」と係が言った。「数値、未確定。再試行を——」

 「再試行は、しません」と彼女は言った。

 部屋が、静かになった。債権者団の端の男が、腕時計を見た。決済の刻限まで、まだ間があった。書式の上では、何も終わっていなかった。分割は、認証がなくても、できる。

 彼女は、寝台に向き直った。それから、部屋のみんなに聞こえる声で、始めた。

 「申し送ります」

 係が、書式を探す顔をした。この部屋の手順書に、申し送り、の欄はなかった。

 「かなしみ、ひきうけ、いっかい、ゼロえん」

 声は、揺れなかった。十一年、面会の窓口で使ってきた声だった。

 「七つのとき、この子は、そう書きました。ちらしの裏を切って。母親を座らせて、小さい掌を胸に当てて、長いあいだ、じっとして。それから、お代は、ゼロえんです、と言いました。……この子の帳簿には、最初から、そう書いてあります。この仕事の値段を、この子は、七つで正しくつけました」

 カメラは、回っていた。止める権限のある者が、この部屋にはいなかった。

 「名前は、凪といいます」

 柚木が、顔を上げた。

 「蓮見凪。八歳。画用紙で日めくりを作る子でした。のこり六八三日、と最初の一枚に書いて、毎晩、一枚ずつめくりました。約束の日まで、あと何日あるかを、この子はいつも、世界でいちばん正確に知っていました」

 債権者団の男が、何か言いかけて、隣の男が、それを止めた。

 「コロッケは、半分にします。あやまるときと、ゆるすとき、うちはそうやって、言葉のかわりにしてきました。商店街の角の店で、ひとつ買って、半分。この子の謝り方は、ソースの匂いがします。……ピアノは、同じ小節でつっかえます。直りませんでした。つっかえたあとの沈黙を、母親が台所で数えることに、なっていました」

 部屋の左右で、熟練の受け手ふたりが、立ち位置の印の上から、動かなくなっていた。節理を読むための指を、ふたりとも、軽く握り込んでいた。

 「それから」

 と彼女は言った。言って、一度、息を吸った。次に言うことは、伏線でも、証拠でもなかった。査定書のどの欄にも入らず、値段の計算を一円も動かさない、ただの、無用の細部だった。無用であることだけが、取り柄だった。

 「この子は、給食の牛乳のフィルムを、一度も破らずに剥がせました」

 部屋の中で、それが何の役に立つのか分かった者は、ひとりもいなかった。分からないまま、誰も動かなかった。

 「毎日、報告してくれました。きょうも、やぶれなかった、と。何の役にも立たない技術です。役に立たないものを、この子は、この世でいちばん大事に磨いていました。……以上です。申し送りは、以上です」

 彼女は、下がった。立ち位置の印の、白いテープの中に、靴の先を揃えて戻した。

 沈黙を、最初に破ったのは、立会人だった。決済の刻限が近い。手順を、分割の同意確認に進めます。保持者は、移転計画に基づく受け手への——

 「お受けいたしません」

 柚木の声だった。椅子から立ち上がって、喪服の前を、両手で正して。

 「保持者として、申し上げます。本日ただいまより、この方以外への移転は、お受けいたしません。今後も、お受けいたしません」

 係が、規程の頁をめくった。めくる指が、途中で止まった。移転には、双方の受諾が要る。世界の三つの条文の、いちばん最初に書いてあることだった。受け手の側に立つ者が受けなければ、悲しみは、動かない。裂くにも、まず動かさなければならない。動かすには、受ける者が要る。

 中断要員の受け手ふたりに、立会人の目が向いた。ふたりは、握り込んだ指を、開かなかった。年かさの方が、首を、ゆっくり横に振った。

 市場は、同意の上に建っている。

 同意は、取り消せる。

 刻限が来て、決済の鐘の音が、廊下の遠くで鳴った。第一六八回。四十九日ごとに、この世界の悲しみの持ち主を確定してきた音だった。分割室の中では、その日、何の持ち主も、確定しなかった。

 のこり、一一日。