第四章 秤係

  常喪二五年九月八日(月) 雨 引受なし 残枠八一八 残高一、〇八四、二二〇円 メイ五四七、〇〇〇円/悼

 雨の月曜に、その男は来た。

 呼び鈴が鳴ってドアを開けると、男は畳んだ傘を鞄側の手に持ち替えてから、頭を下げた。移転対策課の三枝さえぐさです、と名刺を出す。肩書きの下に、手書きで内線番号が足してあった。

 「悼を運んだことは、一度もありません」と、上がり框で彼は言った。「数えるだけの係です。課では、秤係はかりがかりと呼ばれています」

 それが、自己紹介のすべてだった。

 おととい面会に使った座卓に、今日は書類が並んだ。台帳の写し。査定の受入記録。競売公告の切り抜き。彼は書類を左から右へ、時系列に並べた。順番そのものに意味がある、という並べ方だった。

 「確認から始めます。障るようでしたら、止めてください」

 「どうぞ」

 「昨年の十月、お嬢さんの事故のあと、あなたは勤め先からの、福利厚生による引き取りの申し出を断った」

 「はい」

 「十一月、業務適性の確認のための労災査定を受けた。自己悲嘆の汚染検査。法定のもので、断る余地はない」

 「はい」

 「査定は預け払いです。認可査定人への一時移転、最長七十二時間」

 「知っています」

 「その七十二時間のあいだに、お嬢さんのぶんの管理タグが無効化された」

 「知っています」

 「タグのないロットは無主扱いになります。六ヶ月の保管ののち、サルベージ競売にかけられる。遺失物と同じ法律の、準用です。競売は今年の五月。組成と上場が、六月」

 「知っています」

 「ここまでは、事故として処理されています」

 「知っています」

 「うちは、事故だと思っていない」

 雨の音だけが残った。それは、知らなかった。

 「タグの無効化は、システムの上では三分で済む操作です」と三枝は続けた。「ただし、査定経路の内側からしか触れない。外から壊れることは、まずありません」

 「会社が、ですか」

 「会社とは言っていません。経路に触れられた、誰かです」

 業務上横領——と、彼は書類のひとつを指して言った。声に出されると、その六文字は、娘と関係のない、よその会社の事件のように聞こえた。十一ヶ月のあいだ彼女が流出と呼んできたものに、罪の名前がつこうとしていた。

 「悲しみを測る機械は、ありません」と三枝は言った。「ですから、うちは量を追います。量は嘘がつけない。どこかで九十六悼が消えれば、どこかに九十六悼が現れる。帳簿の上では、必ず」

 彼はボールペンの尻で、台帳の写しの一箇所を指した。

 「消えた場所は、分かっています。現れた場所が、問題でして」

 「娘は、メイです」

 先回りするような言い方になった。三枝は、急がなかった。

 「根拠を伺えますか」

 「九十六悼。CL-1a。単一由来九十七。競売の時期も、上場の時期も合います。ほかに、ありません」

 CLは、子を亡くした親の類別。1は純度のいちばん上、aは、まだ生々しい、の記号。単一由来九十七は、九十七パーセントがひとつの悲しみでできている、ということ。娘の等級を、彼女はそらんじている。諳んじられるものが、ほかに残らなかったからだ。

 「……台帳の上では、そこまで単純ではないんです」

 三枝は競売公告の切り抜きを、彼女のほうへ向けた。

 「サルベージ競売は、匿名混載です。無主ロットは受入順に待機列へ入って、出るときに組み直される。九十六が九十六のまま出た、という保証は、どこにもありません。移転の履歴も、無主化の時点で一度、白紙に戻ります。……同じ競売の経路から、同じ時期に、同じクラスの、近い量が市場に出ています。うちで追えているだけで、メイのほかに、三つ」

 雨の音が、急に近くなった。

 「メイは筆頭です」と三枝は言った。「量がいちばん近い。時期もいちばん合う。ただ——唯一では、ない」

 毎朝の数字のことを、彼女は思った。天気予報。娘だと決めて、見てきた数字。

 その、決めて、が、この座卓の上ではじめて、量りに載った。

 「見つけたら」と彼女は言った。「動かした人を、見つけて、立件できたら——返ってくるんですか」

 三枝はボールペンを置いた。この問いに何度も答えてきた、という手つきだった。

 「うちの仕事は、動かした人間を特定するところまでです。返すほうは、別の窓口になります」

 「別の窓口は、どこですか」

 彼はすこし黙って、それから、正直のほうを選んだ。

 「あるとすれば、市場です」

 帰り際、三枝は名刺をもう一枚、と財布を開いた。指が、名刺ではない紙の角に触れて、止まった。四つに畳んだ、古い、角の丸くなった紙だった。彼はそれを出しかけて、戻した。それから名刺を出し、裏に携帯の番号を書いた。

 「思い出したことがあれば、いつでも。……それと、社内でこの話は」

 「しません」

 「助かります」

 玄関で傘を開く前に、彼は一度だけ振り返った。

 「蓮見さん。決めて見るのは、悪いことじゃありません。うちも、決めてから量ります。ただ——量り終わるまでは、決めたことを、事実と呼ばないでください」

 翌朝、彼女はいつもの時間に台所に立って、相場表を開いた。

 メイ、五四七、〇〇〇。前日比、変わらず。

 その朝も、娘は五千二百五十一万円だった。

 すくなくとも、彼女は、そう決めていた。