第五章 絶望の算術
常喪二五年九月九日(火) 曇 引受一件一二悼 残枠八一八 残高一、〇八四、二二〇円 メイ五四七、〇〇〇円/悼
あるとすれば、市場です——秤係の言葉は、一晩たっても、置かれた場所にそのままあった。
昼の依頼人は、母親を亡くした五十代の男だった。査定書は、PA-3a、一二・〇悼。PAは、親を亡くした人の類別だ。仏間ではなく台所に通されて、彼女は流しを背に、掌を当てた。十二悼は、休みなしで一時間半の荷だった。
終わってから、男は訊いた。
「十二って、少ないんでしょうか。母なのに」
「親御さんのぶんとしては、人並みです」
男は、すこし安心した顔をした。彼女はその安心を見なかったことにして、完了確認に署名した。
帰りのバスの窓の上に、社の求人広告が貼ってあった。
——あなたの静けさが、誰かの明日になる。認可引受人(一種・二種)募集。未経験可。平均年収三二〇万円。
写真の中で、白手袋の女が海を見て立っていた。海を見て立つ時間など、この仕事にはない。三百二十万という平均を、彼女は十一年勤めて、まだもらったことがなかった。きょうの十二悼は、手取りで十一万七千六百円。今月はこれで、ノルマの上にいる。
広告の白手袋は、汚れひとつなかった。洗って干す人の手つきが、写真には写らない。
夕方、彼女は商店街の奥へ歩いた。
熊谷芳江の家は、路地の突き当たりの平屋だった。ガラス戸を叩くと、返事より先に戸が開いた。まるで、来ることが帳面に書いてあったかのように。
茶が出て、しばらく、どちらも黙っていた。それから汐里は、三日持ち歩いた問いを置いた。
「買い戻した人を、見たことがありますか」
熊谷は驚かなかった。湯呑みを両手で包んだまま、うん、と言った。
「一人だけ。息子のぶんを売った女でね。三年かけて、買い戻した。売ったときの、倍の値で」
「……戻ったんですね」
「戻ったよ」
熊谷は茶を一口飲んで、それから、付け足すでもなく言った。
「買い戻した悲しみは、預けた着物と同じだよ。畳み方が、変わってる」
畳み方、と汐里は思った。思っただけだった。持ち帰ったのは、三年、と、倍、のふたつだけだった。
「その人は、いまどうしてるんですか」
「その話は、またにしよう」と熊谷は言った。「茶が冷める」
夜、彼女は座卓に手帳を開いた。
数字の頁に、挟んであった一枚が出てきた。避けて、頁の外に置いた。それから、鉛筆で計算を始めた。
メイ 九六悼×五四七、〇〇〇円=五二、五一二、〇〇〇円
娘の全量が、五千二百五十一万。売り買いの単位は口で、メイは十二の口に分かれている。一口、八悼。きょうの値で、約四百四十万。十一年働いた貯金では、いちばん小さい一口にも、届かない。
引受手取り 一悼あたり九、八〇〇円
必要引受量 五、三五八悼
一悼買い戻すために、五十四悼、引き受ける。五十四人ぶんの他人の悲しみで、娘の一悼。全量なら、五千三百悼あまり。
生涯上限 三、〇〇〇悼(累積 二、一九四)
残枠 八〇六悼×九、八〇〇円=七、八九八、八〇〇円
法律が彼女に許した残りの人生を、一悼残らず使って、七百八十九万。娘の値段の、十五パーセント。年の上限まで毎年引き受けて二十二年ぶんの金額を、彼女は三年半ぶんの体で稼がなくてはならない。
計算は、三十分で終わった。人生の残りを見積もる作業が三十分で終わることを、彼女はその夜、知った。
しかも数字は、止まっていない。上場のとき、メイは一悼十八万だった。三ヶ月で、三倍。相場が一晩で動いた八十万は、彼女のひと月の稼ぎの、四ヶ月ぶんだった。彼女が一悼ぶん稼ぐあいだに、娘は一悼ぶんより速く、遠くなる。
鉛筆を置いて、頁を眺めた。
残枠を超えて引き受ければ、免許が止まる。免許の外の仕事は、単価が相場の三割だと聞いたことがある。貯金は、一口に届かない。数字は、どの道も閉じていた。閉じていない道があるとすれば、それは数字の外にしかなく、数字の外がどこなのかを、彼女はまだ知らなかった。
閉じる前に、避けてあった一枚を頁に戻した。
かなしみ ひきうけ 1かい 0えん
書いたばかりの五千二百万の上に、ゼロえんが重なった。
彼女は手帳を閉じて、明かりを消した。