第六章 原悲権
常喪二五年九月十三日(土) 晴 引受なし 残枠八〇六 残高一、〇八四、二二〇円 メイ五五二、〇〇〇円/悼
数字の外の道は、思いがけない方角から来た。最初のそれは、元夫の形をしていた。
突然すまない、話がある、会えないか——メールは三行で、駅前の、昔はなかった喫茶店を指定してきた。昔あった店を避けたのだと、指定のしかたで分かった。
柏木亮は先に来ていて、彼女を見ると立ち上がり、椅子を倒しかけた。
「このたびは」と、彼は立ったまま言った。
十一ヶ月遅れの、このたびは、だった。
「どうも」と彼女は言った。どうも、のほかに、言葉の在庫がなかった。
最後に会ってから、数えかたによって七年か、八年になる。別居から数えるか、判を押した日から数えるか。どちらから数えても、娘が生きた時間と、ほとんど同じ長さだった。
彼はコーヒーをふたつ頼みかけて、あ、と彼女を見た。昔の癖で頼みかけて、いまの彼女を知らないことに気づいた顔だった。コーヒーでいい、と彼女は言った。ほんとうは、もう飲まない。取り込みの日に胃へ入れない習慣が、休みの日まで広がった。それは、言わなかった。
彼は機材レンタルの会社にいる、と言った。彼女は、そう、と言った。テーブルの上の彼の指を見た。弦を押さえていたころの硬さは、もうなかった。事務の指になっていた。
沈黙が来て、彼が言った。
「葬式に——」
「いい」
「……ごめん」
何に対する謝罪なのかは、どちらも特定しなかった。
彼が出ていった年のことを、彼女は考えないようにして、すこし考えた。副流悲——引受人の家族が、そばにいるだけで浴びると言われたもの。当時は、学者の意見が割れていた。赤ん坊にはとくに、と言う医者と、迷信だと言い切る医者がいた。彼は怖がった。怖がりかたは、誠実ですらあった。彼はまず娘を怖がり、それから自分を怖がり、最後に、彼女のことを、悲しみの側の人間として怖がるようになった。
「それで」と彼女は言った。
柏木は鞄から封筒を出した。法律事務所の名前が刷ってある。
「原悲遺族の支援をしてる弁護士なんだって。メイを……あれを、市場から外す訴訟を考えてる人たちがいて。悲嘆は遺骨と同じ、祭祀財産だっていう理屈で。遺族が声を上げるほど強くなるらしくて、それで、その……父親も遺族だから、俺にも連絡が来た」
「費用は」
「着手金は要らないって」
「誰が払うの」
「支援者がいる、って言ってた」
支援者、と彼女は思った。無料の窓口は、この世界にはない。それだけは、確かだった。
「書面にはさ」と彼は続けて、そこで初めて言いよどんだ。「取り戻せた場合の、その、持分は遺族間で――って書いてあって。いや、俺は、金が欲しいわけじゃ」
言ってから、それがいちばんまずい言い方だったと、自分で気づいた顔をした。
「メイが、あの子だと決まったわけでもない」と彼女は言った。
言いながら、自分が秤係の言葉を使っているのに気づいた。量り終わるまで、決めたことを事実と呼ばない。決めて生きているのは、彼女のほうなのに。
「決まってなくても、声は上げられるって、弁護士は」
「考える」と彼女は言った。
柏木はうなずいて、コーヒーを飲んで、それから、頼まれてもいないことを言った。
「持分の主張には、自分の査定書が要るって言われたんだ。だから、受けた。先月」
彼は紙を出さなかった。数字だけを出した。
「三悼だった」
彼女は何も言わなかった。
「三だよ。……親なのに、三」
人並みです、と言う仕事を、彼女は思い出した。四日前、母を亡くした男に言った。十二で、人並みです。子を亡くした親の人並みは、八十から先だ。彼に言える数字の言葉は、この世界のどこにも用意されていなかった。
「八年会ってないと、こうなるんだな」
誰に殴られたのでもない、殴られた者の言い方だった。
「でも、覚えてることは、あるんだよ」と彼は言った。急いで言った。「夜泣きは、左腕だった。右だと泣きやまない。左だと、すぐ寝た。最初に喋った言葉は——」
そこで、止まった。
汐里の知らない話が始まりかけて、ふたりとも、それ以上は進めなかった。彼は自分だけが持っているものの持ち方を知らず、彼女は、求めかたを知らなかった。
伝票は彼が先に取り、彼女は止めなかった。何かの代わりにはならないが、止める理由もなかった。
店の外で、別れ際に、彼は自分の喉のあたりを指した。
「あの査定の日から、三悼が、ずっとここにあるんだ。軽いのに、重いんだよ。変だろ」
変だとは、彼女は思わなかった。それは言わずに、封筒を鞄にしまって、頭を下げた。
封筒は軽かった。帰って机に置いてからも、その場所だけが、夜まで重かった。
【資料】「原悲遺族支援の会」リーフレット(抜粋)
Q 家族の悲嘆が市場で取引されています。取り戻せますか。
A 法律上、返還を請求する権利はありません。原悲権が保障するのは、対象ロットが売りに出る際に優先して買い受ける権利(優先買付権)と、分割・輸出等の手続の際に立ち会う権利です。
Q 自分の悲しみだと証明できれば、返してもらえるのではありませんか。
A 由来の証明(共鳴試験による認証)は、所有権を移しません。なお、認証を受けたロットは市場価値が上がる傾向が確認されています(当会調べ・平均約三倍)。試験の実施は、慎重にご検討ください。
Q 盗まれたものでも、ですか。
A 競売など法定の手続を経て取得された場合、取得した者の所有権は保護されます(善意取得)。刑事事件として立件された場合も、返還ではなく金銭の賠償となるのが通例です。
Q 打つ手は、ないのですか。
A 悲嘆を遺骨・位牌と同様の「祭祀財産」とみなし、取引の対象から外すべきだとする主張があります。裁判例は、分かれています。当会は、この主張を支援しています。
※ご相談は無料です。訴訟費用については、個別にご案内します。