第八章 カラオケボックスの相場

  常喪二五年九月二十四日(水) 曇 引受一件三四悼(取消) 残枠七九八 残高一、〇八四、二二〇円 メイ五五八、〇〇〇円/悼

 キャンセルの電話は、朝に来た。

 夫を亡くしたパート勤めの女性で、査定まで済んでいた。三四・〇悼。電話の声は遠慮の塊で、キャンセル料の説明を全部聞いてから、小さく言った。

 「知り合いに、安くやってくれる人を、紹介されて」

 「……無認可は、危ないんです。査定も、上限の管理もありません」

 「すみません」と女性は言った。すみません、はキャンセル料への謝罪で、無認可への答えではなかった。それから、聞かれてもいないのに、場所を言った。駅裏のカラオケ店の名前と、あしたの三時。後ろめたさは、隠しごとを下手にする。

 翌日、汐里は二時四十分に、その店にいた。

 受付は自動精算機だけで、廊下は消毒液と煙草のにおいがした。三〇四号室のドアの小窓から、明かりが見えた。ノックすると、返事の代わりに、どうぞ、でもない声がした。

 「三〇四、貸切なんだけど」

 若い女が、ソファに浅く座っていた。テーブルにウーロン茶がひとつ。モニターは消音で、誰も歌わない部屋に、歌詞だけが流れ続けていた。

 女は汐里を眺めて、ああ、と言った。

 「認可の人だ。歩き方で分かる」

 熊谷と同じことを、熊谷の半分の歳の女が言った。

 「三時の方の、前の担当です」と汐里は言った。

 「知ってる。三十四でしょ。見りゃ分かる」

 「査定なしで」

 「慣れ。おたくらの計器も、結局は人間じゃん」

 言い返せなかった。悲しみを測る機械はない。査定人の体が量りで、彼女の体が容れ物で、それはこの若い女の言うとおり、免許があってもなくても、人間だった。

 「いま、いくつ入ってるんですか」と汐里は訊いた。

 「数えてない」

 「上限は」

 「あれ、免許の話でしょ。あたし、免許ないもん」

 「体の話です」

 女はウーロン茶を一口飲んだ。立ち上がらないまま、姿勢を直した。その直し方が、彼女の倍は生きた人間の動きだった。

 「体は、まだ動くよ」

 「帳簿は」と汐里は言った。「誰のを、いくつ、どこに置いたか」

 女はそこで初めて、汐里をちゃんと見た。

 「あたしの在庫、どれが誰のか、もう分かんないんで」

 自慢でも告白でもない、在庫の報告だった。在庫、という言葉だけが、消えない歌詞の下に、しばらく浮いていた。

 「死にますよ」

 「かもね」と女は言った。それから、初めてすこしだけ、声に体重を掛けた。

 「でもさ。あの人、おたくの見積もり、八万って言われたんだよ。査定と処理で八万。パートの人だよ。八万払って空にするか、二万五千で空にするか、払えないから一生持って歩くか。三つめが、いちばん死ぬと思わない?」

 汐里は、答えを持っていなかった。彼女の会社の値段が、この部屋を作っていた。おたくが断る人が来るの、と女は言った。断ってるつもりはなくても、値段が断ってるんだよ。

 「取りに来たんなら、どうぞ」と女は言った。「あたしは、次の部屋もあるし」

 「……取りに来たんじゃない」

 「じゃあ、何しに来たの」

 それには、部屋の歌詞も答えなかった。

 ノックがあって、きのうの電話の声が、ドアの隙間から頭を下げた。汐里を見て、一度固まり、もう一度深く下げた。

 「すみません。うち、余裕がなくて」

 「キャンセル料は、取り消しておきます」と汐里は言った。それしか、渡せるものがなかった。

 廊下に出ると、隣の部屋から、下手な歌が漏れていた。古い歌だった。この店の部屋の半分は歌のために借りられ、残りのいくつかは、そうではないもののために借りられている。廊下は、どちらにも同じにおいがした。

 外は夕方だった。

 歩きながら、頭が勝手に計算を始めた。三割の単価。免許の数えない量。査定のない、台帳のない、枠の外の——そこまで数えて、自分が何を数えているのかに気づいて、やめた。

 角で一度だけ、振り返った。三〇四号室のあたりの窓に、明かりがついていた。あの部屋でいまごろ、誰かの三十四悼が、名前を失っていく。

 名前を失わせない側に、自分はまだ立っている。

 まだ、という言葉が、勝手についた。