第二部 試し持ち
第十章 候補一号
常喪二五年十一月一〇日(月) 晴 引受一件一八悼 残枠七五二 残高一、三五八、六四〇円 メイ五八八、〇〇〇円/悼
原悲権の登録窓口は、取引所会館の三階の、いちばん奥にあった。
用紙は一枚もので、対象ロットを書く欄が一行しかない。彼女は欄の外にはみ出して、四つ書いた。メイと、秤係の教えてくれた三つの寄託番号。
「四件、ですか」と窓口の男は言った。
「ひとつが、娘です」
「……登録は、四件ぶんの手数料になります」
どれか分からない、ということに、この世界は手数料を取った。彼女は払った。
「登録内容は、公示されます」と男は続けた。「公示、というのは」
「知っています」
誰でも見られる、ということだ。蓮見汐里が四つのロットを探している、という事実が、あしたから市場の端に貼り出される。それが何を招くのかを、彼女はまだ、貼り紙の言葉でしか知らなかった。
仲介業者の返事は、三日で来た。
四つのうち、いま値のつく話はひとつだけだった。候補一号。CL-2a、九一・〇悼、単一由来八九パーセント。同じ五月の競売バッチから出て、小口の投資家が持て余しているという。言い値は、一悼二万八千円。九十一悼で、二百五十四万八千円。
メイの、二十分の一の値段だった。
メイが娘だと、彼女は決めている。決めているだけだ。もし違うのなら——娘が、名前も物語もつかない、安いロットのほうにいるのなら——二百五十五万で、連れて帰れる。希望はそういう形をしていて、その形が、彼女はすこし嫌いだった。安いほうにいてくれ、と願うことは、娘の値段を願うことと、どこかで同じ手つきだったからだ。
貯金は、百三十五万だった。
足りないぶんは、社の前払い制度を使った。総務の用紙の、理由の欄に、家事都合、と書いた。娘の悲しみの候補を買うため、と書く欄は、この世界のどの書式にもない。承認の判は、その日のうちに押されて戻ってきた。管理タグを消したかもしれない会社から、彼女は百二十万を借りた。借りながら、そのことは考えないことにした。考えても、ほかに窓口がなかった。
週の半ばに、定型の引受がひとつ入った。
姉を亡くした三十代の女性で、一八・〇悼。SBは、きょうだいを亡くした人の類別だ。アパートの狭い台所で、二時間かけて移した。終わったあと、女性は自分の手のひらを見て、それから顔を上げて、訊いた。
「……ごはんの味が、するようになりますか」
「します」
「そうですか」
帰り際、玄関で、ありがとうございました、と三回言われた。それだけの依頼だった。それだけで終わる依頼が、この仕事の九割で、その九割が、彼女を十一年、ここに立たせてきた。
候補一号の話を進めながら、彼女は講習の言葉をいくつか、埋めた場所から掘り出した。
移転は、途中でやめれば裂ける。裂けは、双方に残る。だから試すだけ、というやり方はない。入れるなら、ぜんぶ入れる。
入れたものは、出す先が要る。外れなら売るしかなく、外れの九十一悼に、買い手はつきにくい。つかないあいだ、それは彼女のものだ。掟はそれを、保持義務と呼ぶ。
そして、枠。九十一悼を入れれば、残枠は七五二から六六一になる。外れでも、戻らない。稼ぐのも、確かめるのも、同じ枠を食う。財布と量りが、同じひとつしかない。それがこの探索の、最初からの決まりだった。
引き取りは、金曜からの二日がかりだった。
保管所は、倉庫街の外れの、窓の少ない建物だった。事務室で書類を交わすと、職員が手を止めて、彼女を見た。
「現物で、お持ちになるんですか」
「はい」
「……珍しいですね。紙のままにしておく方が、ほとんどですけど」
紙のままで置いておけるのは、重さを誰かに預けたままでいられる人だ。彼女は預ける側ではなく、預かる側だった。それに、紙は答えない。答えは、体にしか来ない。
保持人は、六十がらみの契約職員の男だった。九十一悼を、休みを挟みながら、二日かけて受け取った。男の胸から、知らない子の、知らない九十一悼が、川底の石のひとつずつで移ってくる。男は終わったあと、長く息を吐いて、ずいぶん軽くなった、と言った。仕事で持っていただけの重さでも、下ろせば軽い。
二日目の夜、家に帰って、彼女は畳に横になった。
新しい重さが、座りを決めていく。CLの型は、決まって胸骨の裏と、両腕に座る。子どもを抱いた場所に、子どもを亡くした悲しみは座る。
一周忌の夜に、空いていると確かめた場所だった。
そこへいま、知らない誰かの九十一悼が、ゆっくりと入っていく。両腕が、一年ぶりに重い。その重さが娘のものかどうかを、体は、まだ何も言わなかった。
答えは、同居が言う。何週間もかけて、すこしずつ言う。彼女は目を閉じて、聞く仕事を始めた。