第十一章 ただの石になる朝

  常喪二五年十二月一八日(木) 晴 引受なし 残枠六六一 残高三五、六二〇円 メイ六一五、〇〇〇円/悼

 五週間、彼女は聞く仕事をした。

 同居のあいだ、引受は減らした。新しい重さは、耳を塞ぐ。金は減ったが、耳は要った。

 朝と夜に、部屋で名を呼んだ。点呼の声とは違う声で。点呼は確認で、これは呼びかけだった。呼んだあと、両腕の重さに耳を澄ます。

 娘が練習していた曲の音源も、流した。つっかえる小節の場所が来るたび、彼女のほうが息を止めた。重さは、動いた。呼べば動き、曲が鳴れば動き、コロッケ屋の道を歩けば動いた。コロッケはひとつ買って、半分に割って、半分を食べる者のいないまま、持って歩いた。

 動く。動くが、深まらない。

 三週目のある夜、名を呼んだとき、両腕の奥がはっきりと動いた気がして、彼女は畳に座り直した。もう一度呼んだ。同じ動き。同じ大きさ。翌朝も呼んだ。同じ大きさだった。翌週も、同じ大きさだった。

 応え、という言葉を、講習は教えない。市場の言葉では共鳴で、査定の言葉では適合で、どちらも彼女の探しているものの名前ではなかった。彼女が待っているのは、深まる動きだった。呼ぶたびにこちらの知らない日付を思い出し、こちらの黙っている場所で目を覚ます、そういう動きだった。

 残響は、違う。残響は、こだまの大きさが決まっている。

 十二月十八日の朝だった。

 麦茶のポットは、季節に関係なく、冷蔵庫にある。誰の係だったかを、冷蔵庫が覚えているからだ。

 彼女はグラスをひとつ出した。手が、ふたつ目を出していた。

 その、止まった手の中で、確信は音もなく来た。

 五週間、動いていたのは、重さではなかった。彼女だった。彼女の呼び声が、石の面で跳ね返って、動きに見えていただけだった。ふたつ目のグラスを出したのも、石ではない。彼女の側の、治っていない癖だ。石は最初から、ただの石だった。誰かの、知らない子の、本物の九十一悼——けれど、彼女の子のではない。

 グラスを戻して、麦茶をひとつだけ注いで、立ったまま飲んだ。

 棄却の証明に、五週間と、八十万円かかった。

 八十万の内訳は、こうだ。仲介に問い合わせると、原悲権者さまが手放される場合、いまですと一悼一万七千ほどで、と言われた。買値は二万八千だった。公示登録者が五週間持って手放したロットは、外れの烙印らくいんつきで売られる。彼女の五週間が、値札の一部になっていた。

 烙印のつかない売り方を、彼女はひとつだけ知っていた。

 三〇四号室は、変わらずに消毒液と煙草のにおいがした。

 「外れだったんだ」と瀬川せがわは言った。

 「うん」

 「……そ」

 慰めは、なかった。あるのは見積もりだった。うちの筋なら一悼二万、現金、あした。書類は、ない。台帳にも、載らない。

 載らない、という言葉のところで、秤係の顔が一度だけ頭を通った。帳簿の男は、帳簿から消えるものを追う男だ。消える側に、今度は彼女が立つ。一晩考えます、と言いかけて、やめた。考えても、ほかに窓口がなかった。お願いします、と言った。

 手続きの話が済むと、瀬川はデンモクを引き寄せて、一曲入れた。

 「部屋代、もったいないじゃん」

 流れてきたのは、十年前のアイドルソングだった。瀬川は無表情のまま、フルコーラスを完璧に歌った。合いの手も、自分で入れた。はいせーの、と自分で言って、自分で歌った。マイクは点いていて、この部屋が初めて、歌の部屋になった。

 採点は八十七点だった。

 「低くない?」と汐里は言った。

 「機械は厳しいんで」と瀬川は言った。

 久しぶりに、鼻から息が抜けた。笑いに数えていいのかは、分からなかった。

 受け渡しは、翌日の晩に済んだ。九十一悼が瀬川の筋へ流れ、封筒の現金が残った。両腕は、五週間ぶりに軽くなった。軽くなった場所が、また空いた場所に戻った。空いた場所の空きかたを、彼女はもう、確かめなくても知っていた。

 週が明けると、メイは三万上がった。

 候補が一つ消えた、と市場は読んだのだ。彼女の五週間と八十万円が、娘の値札の、理由の欄に書き足されたようなものだった。探すほど、遠くなる。仲介の男が電話口で、市況ですから、と言った。市況、という言葉を、彼女は黙って聞いた。

 夜、手帳を開いて、候補一号の欄に、棄却、と書いた。

 書いてから、それが査定の言葉なのに気づいた。消して、書き直した。

 ちがう子、と書いた。

 のこりは、ふたつ。カレンダーは、のこり二〇三日。