第十二章 先回り
常喪二六年一月一九日(月) 晴 引受一件一四悼 残枠六二九 残高二一八、三六〇円 メイ六四〇、〇〇〇円/悼
瀬川の筋から受け取った百八十二万は、封筒のまま、簞笥にある。帳簿外の売買の金は、残高の欄に書けない。書けない金、というものを、彼女は生まれて初めて持った。手帳の事務の一行が、その日から、すこしだけ嘘になった。
候補二号の交渉は、年末年始を挟んで、詰めまで行っていた。
CL-2a、八九・〇悼、単一由来九一パーセント。持ち主は地方の資産家で、言い値は一悼三万五千。八十九悼で、三百十一万五千円。封筒と残高を合わせても、百万近く足りなかった。彼女は金策に三日を使った。熊谷に頭を下げかけて、やめて、社の前借りの残り枠を調べ、瀬川に電話をかけかけて、やめた。
三日で、消えた。
「先ほど、別口で約定が入りまして」と仲介の男は言った。「買い手は……非公開です」
翌々日、彼女あてに書留が来た。
原悲権者様向け 優先ご案内
銘柄(仮) 候補二号 CL-2a 八九・〇悼
ご案内価格 一悼につき 九八、〇〇〇円
三万五千が、三日で九万八千になっていた。値上がりの理由は、書いていない。書いていなくても、分かる。彼女の関心が、理由だった。
優先買付権は、こういうふうに使われる権利だった。彼女にいちばん先に売りつける権利。それを彼女は、登録料を四件ぶん払って、彼らに与えたのだ。
群がりは、書留のあとから始まった。
電話が来た。郵便が来た。ひとりは、家まで来た。どの声も同じことを言った。お嬢様の可能性のあるロットを、お持ちしました。CL類、急性、九十悼前後。まずは簡易のご照合だけでも。お試しで、三十万。
家まで来た男は、感じがよかった。書類の束をテーブルに広げて、特別なご縁、という言葉を三度使った。彼女は書類の発火暦の欄を見た。四月、中。それだけだった。
「日付は」と彼女は訊いた。
「は?」
「四月の、何日ですか」
男は書類をめくった。めくっても、書いていないものは出てこない。公開データは月までしか出ない。中身をほんとうに知っている者なら、八日、と書ける。知らない者は、月の欄を丸写しにするしかない。
「お引き取りください」
羅針盤の最初の仕事は、探すことではなく、嘘を見分けることだった。
一週間で、娘かもしれない、が十一人来た。娘は、一人しかいない。
二月の頭に、立会の通知が来た。
候補二号に係る共鳴試験の実施について——彼女は登録者として、立ち会う権利があった。買い攫った者が、値を上げるために認証を急いだのだ。試験には、別の遺族が呼ばれていた。
立会室で、五十代の夫婦と隣り合った。二十二歳の息子を亡くした人たちだった。母親は、保持者の胸のあたりから目を離さなかった。一度、手が伸びかけて、止まった。触れれば、手続きの外に出てしまう。
試験は、一時間かかった。年配の査定人が、読み上げた。
「R一四」
共鳴の強さは、Rの数字で言う。高いほど、由来が近い——と、されている。これだけ出れば、まず、と査定人は言い、語尾を職業の癖で濁した。母親が声を出さずに泣き、父親が母親の背中に手を置いた。
候補二号は、彼らの息子だった。彼女の消去法が、彼女の払っていない金で、ひとつ進んだ。
立会室を出るとき、廊下の先で、誰かが電話をしているのが見えた。攫った側の人間だった。数分後、彼女の携帯の気配値の画面で、候補二号は二倍を超えた。認証見込み、の四文字が、値札に書き足されたのだ。
父親の顔を、彼女は見なかった。見なくても知っている顔だった。証明した瞬間に、手が届かなくなる。あの夫婦がそのあと買えたのかどうかを、彼女は知らない。知らないままでいることを、選んだ。
仲介の男が、帰りの窓口で、声を落として言った。
「蓮見さん。正直に申し上げますとね……あなたが動くと、値が動くんです」
彼女は礼を言って、外に出た。礼を言う場面ではなかったかもしれない。ほかの言葉が、在庫になかった。
探す足音が、探し物を高い棚へ押し上げていく。見れば上がる。触れば上がる。証明すれば、いちばん上がる。彼女の切実さは、彼女の敵の燃料だった。静かに歩く方法を、彼女はまだ持っていなかった。
夜、十一人ぶんの封筒の束を、もう一度めくった。
十通は、月の欄の丸写しだった。
一通だけ、日付が書いてあった。
十月二十六日、と。
正しい日付だった。正しすぎる日付だった。彼女はその封筒だけを、捨てられないまま、手帳の隣に置いた。
のこり、一七一日。