第十三章 ヨスガの箱
常喪二六年二月一六日(月) 雪 引受二件二六悼 残枠六〇三 残高三〇八、五四〇円 メイ六五五、〇〇〇円/悼
呼び出しは、総務を通して来た。業務面談、と件名にあった。
ヨスガの本社は、駅前の古いビルの三フロアで、受付の案内板に、見慣れない社名が一枚増えていた。レーテHD。灰色の背広の一団が、エレベーターの前で声を低くして立っていた。
応接室は、白い箱のような部屋だった。窓がひとつ、テーブルがひとつ。桐山遼子は先に来ていて、彼女を見ると、疲れた顔をしなさんな、と言った。面談はそこから始まった。
「枠、六〇三ですね」と桐山は言った。手元の紙は、見なかった。「一年で三割減った。会社は、あなたの体の帳簿を持っています。持っているのに、使いみちを訊く権利はない。だから訊きません。……警察が、来たでしょう」
さらりと、言った。
「うちにも来ています。ご心配なく。調べてもらうのが、いちばん早い」
やましさのない声だった。やましさのない声を、彼女は疑う方法を知らなかった。この人に拾われた日のことを、体が覚えているからだ。二種で始めたばかりのころ、無茶な量を積まれて、路上で立てなくなった。搬送先の病院に、面識もない桐山が来た。うちにいらっしゃい、と言った。量を数えない会社は、あなたを数字ごと潰します。うちは数えます——それが十一年前で、それから会社は、ほんとうに数え続けてくれた。
窓の外、雪の駐車場を、灰色の会服の一団が横切っていくのが見えた。
「修道会の引受班です」と桐山が言った。「月に一度、うちの紹介で、払えない方のところを回ってもらっています。無償で。教義では、愛徳と言うそうです」
「……ありがたいことです」
「ありがたい。そして、足りない」桐山は窓から目を戻した。「ああいう愛は、尊いんです。尊くて、偏っていて、数が足りない。愛は偏在するんですよ、蓮見さん。あるところには溢れて、ないところには一滴もない。市場は遍在する。値段は、愛の代わりに、世界じゅうへ配達網を敷くんです。私は愛を配れない。値段なら、配れる」
反駁は、できなかった。彼女の十一年の給料も、敏江さんのぶんの保管も、姉を亡くした女性の「ごはんの味」も、ぜんぶその配達網の上に載っていた。
「あなたは目がいい」と桐山は続けた。「発見手当、何回になりました」
「……四十一回です」
「四十一回。うちの記録です」
誇らしげに言われて、彼女は膝の上の手を見た。他人の悲しみのなかに、いい等級を見つける。報告する。会社がそれを原石と呼んで、手当が三万つく。十一年、いい仕事だと思ってやってきた。娘は、誰かの四十二回目だったのかもしれなかった。同じ帳票で、同じ判で、同じ三万で。
「蓮見さん。ひとつ、昔の話をします」
桐山は茶を注ぎ足した。
「私は九つのとき、弟を亡くしています。三つ下の、よく笑う子でした。……何も、感じませんでした。悲しみが、発生しなかった。当時はまだ査定なんてありませんが、あれば、ゼロ悼です。医者は、時間の問題だと言いました。時間は、何十年経っても、問題のままでした」
声は、乾いていた。乾いた声のまま、桐山は言った。
「感じられない人間にはね、値段だけが、悲しみの実在を教えてくれるんです。九十六悼に五千万の値がつくなら、九十六悼の悲しみは、ある。世界のどこかに、確かに、ある。……羨ましいんですよ、蓮見さん。あなたの九十六悼が」
彼女は、何も言えなかった。羨ましい、という言葉が、この人の口から出た中でいちばん正直な言葉だと分かって、分かったことが、いちばん応えた。
「本題です」と桐山は言った。「会社として、あなたの買い戻しを支援する用意があります。弁護士でも、資金でも。かたちは、ゆっくり詰めればいい。……メイがうちの箱に入っていれば、と思うことはありますよ。うちの箱に入っていれば、あなたに返す道も、作れたかもしれない。惜しいことをしました」
惜しい、の使いかたが、すこしだけ、商いの言葉だった。彼女はそれに気づいて、気づかなかったことにした。
「考えます」と彼女は言った。
「どうぞ。急かしません。ただ、覚えておいてください。疲れ切ってしまう前に——うちは、あなたの箱にもなれる」
部屋を出るとき、廊下の先で、レーテの背広たちの声が切れ切れに聞こえた。旗艦が抜けたぶんの、のれん代を——旗艦、という言葉だけが、意味の分からないまま、彼女の耳に残った。
エレベーターの前まで、桐山は送ってきた。閉まりかけの扉を手で止めて、言った。
「枠を、大事になさい。会社は、枠の切れた引受人を守れた例しがない」
忠告として、正しかった。会社として、正直だった。扉が閉まって、彼女は一階まで、その正しさと二人きりになった。
雪の中を駅へ歩きながら、憎めれば楽だ、と思った。憎むための取っ手が、あの人にはどこにも付いていない。拾われた恩は本物で、数えられた十一年も本物で、羨ましい、も本物だった。本物ばかりでできた人が、娘の値札の側に立っている。
箱、という言葉を、反芻した。うちは、あなたの箱にもなれる。
娘の箱なら、骨壺のほかに、要らなかった。