第十四章 花帳

  常喪二六年三月八日(日) 曇 引受なし 残枠五八三 残高四〇二、一一〇円 メイ六七二、〇〇〇円/悼

 電話は、熊谷のほうから来た。手伝ってほしいことがある。花を見においで——用件はそれだけで、切れた。

 路地の突き当たりの平屋は、行ってみると、花だらけだった。

 仏間に三つ、台所にひとつ、玄関にひとつ。竜胆と、白い菊と、名前の分からない小さい花。花瓶が足りず、湯呑みに挿してあるのもあった。

 「きょうは、五人ぶんの命日でね」と熊谷は言った。「発火の日に、その子の花を買う。それだけの決まりだけど、五十年もやってると、花屋が先に覚えてる」

 花帳の作法だった。名前を知らない悲しみたちに、熊谷は花の名を配ってきた。竜胆の子。都忘れの子。誰の悲しみかは、死ぬまで分からない。分からないまま、命日に花だけが咲く。私設の、番号のない葬送だった。

 「先週、満量になったよ」

 茶を出しながら、熊谷は、あしたは晴れる、の声で言った。

 「三千ちょうど。最後のひとつは、無縁の子にした。引き取り手のない、行旅死亡人こうりょしぼうにんの。うちの家系の締めくくりには、ちょうどいい」

 「……おめでとうございます、でいいんですか」

 「いいよ。定年だ」

 それから熊谷は、座卓の上の書きかけの紙を、彼女のほうへ回した。遺書だった。文面の途中に、太い字で、一行だけ浮いていた。

 どうか、近づかないで。

 「施設はね、どこも入れてくれない」と熊谷は言った。「満量は、事故物件なんだよ。あたしが死ぬとき、いちばん近くにいる者が、あたしの三千悼を、丸ごと呑む。同意も、契約も要らない。法則でそう決まってる。落ち、って言ってね。赤ん坊と、眠ったきりの人は飛ばす。それだけが、法則の慈悲だ」

 知っている、ではなく、装填し直す、という聞き方を彼女はした。落ちのことは、講習の最初に習う。習ったきり、誰もが考えないことにしている。考えれば、この仕事の終点が見えるからだ。

 「傍立そばだち、って知ってるかい」

 「……名前だけ」

 「金で雇われて、臨終の席のいちばん近くに立つ稼業だよ。大口の保持者が死ぬときにね、親族は部屋の外へ出て、雇われた貧乏人が、枕元に立つ。避雷針だ。落ちた三千悼ごと、金と一緒に呑んで、帰る。……相場は知らない。知りたくもない」

 湯呑みの茶が、冷めていった。

 「あたしは雇わないよ」と熊谷は言った。「人の一生ぶんを、金で他人に落とすくらいなら、山で独りで死ぬ。家系の家が、山にまだある。泣き女はね、代々、あすこで独りで死ぬ決まりなんだ。誰にも移さず、抱えたまま納める。常喪の前から、うちの家系はそうやってきた。悲しみが移るようになる前から、移る前提で生きてきたような家系なんだよ」

 それから、手伝い、の話になった。

 熊谷は花帳を、座卓の真ん中に置いた。五十年ぶんの、花の名簿だった。

 「あたしが死んだら、この帳面の花を、命日に買っておくれ。一年でいい。一年経ったら、この子たちの命日を覚えてる人間は、この世からいなくなる。それでいい。けど、いきなりは、かわいそうだ」

 「……はい」

 引き受けます、とは言わなかった。仕事の言葉を、ここで使いたくなかった。はい、で足りた。

 帰りかけて、彼女は座り直した。

 「九月に聞いた話の、続きを聞かせてください。息子のぶんを買い戻した人の」

 熊谷は、湯呑みを置いた。

 「三年かけて、倍の値で、戻った。……戻ったけどね。あの人には、もう分からなかったんだよ。三年のあいだに、よその手を三つ通ってた。座りが変わって、粒が摩れて、呼んでも、あの人の知ってる動きをしない。本物だよ。書類の上でも、まちがいなく本物。本物なのに、あの人は言った。——これは、うちの子の悲しみに、よく似た他人さまだ、って」

 「……その人は、どうしたんですか」

 「いまも持ってるよ。他人の子みたいに、大事に、大事に」

 熊谷は彼女を見た。

 「買い戻した悲しみは、預けた着物と同じだ。畳み方が、変わってる。九月のあんたは、値段の話しか持って帰らなかったろ。きょうは、ぜんぶ持ってお帰り」

 ぜんぶ持って、帰った。重かった。悼のつかない重さだった。

 夜、彼女は娘の部屋の前に立った。段ボールは持たなかった。仕舞う夜ではなく、開ける夜だった。

 ランドセルの中身を、彼女はまだ一度も、ぜんぶ出せたことがなかった。

 時間割。筆箱。角の潰れた自由帳。その下に、小さいメモ帳があった。表紙に、かんさつノート、と書いてある。

 開くと、日付と数字が並んでいた。

  四がつ二十日 三キロ はれ

  四がつ二十一日 五キロ くもり

  四がつ二十二日 二キロ はれ

 娘は、記録をつけていた。毎朝の、あの天気予報の答えを。重さに天気を振って、一年半、彼女を観測していた。母親が帳簿をつけているあいだ、娘も帳簿をつけていた。母親の悲しみの、天気の帳簿を。

 頁は、事故の週で終わっていた。

 最後の記入は、発表会の口論の、次の日だった。

  十がつ二十一日 五キロくらいだとおもう きいてない

 きいてない。

 その先は、白い頁だった。

 聞かれなくなった週の、自分の重さを、彼女は覚えていない。娘だけが、量ろうとしていた。訊けないまま、たぶん、と書いて、たぶんのまま、終わっていた。

 彼女はノートを閉じて、胸に当てた。それから手帳を出して、数字の頁に、挟めるかどうかを見た。挟まなかった。これは、彼女の帳簿に挟むものではなかった。帳簿と帳簿は、並べて置くものだった。

 台所のカレンダーの横に、かんさつノートの置き場所を作った。母の帳簿と、娘の帳簿が、初めて同じ部屋で夜を越した。