第十五章 候補三号
常喪二六年四月八日(水) 晴 引受なし 残枠四九九 残高一八、六五〇円 メイ六九〇、〇〇〇円/悼
封筒の男が家に来たのは、三月の半ばだった。
十一人の中でただひとり、正しい日付を書いてきた男だった。電話で約束を取り、時間ちょうどに来て、玄関で名刺を出した。仲介業、とだけある名刺だった。書類は薄い鞄に、角を揃えて入っていた。
「三つ目の、兄弟候補です」と男は言った。「競売のあと、人手を三度、渡っています。追うのに、時間がかかりました」
書類は、精密だった。来歴の紙、等級の紙、そして発火暦の紙。読取の欄に、一行だけあった。
発火暦(読取) 十月二六日 強
その他 摩耗により読取不能
「摩耗、ですか」
「三度も人手を渡ると、こうなります。弱い日付から、消えていく。強いのだけが、最後まで残る」
彼女の原簿には、五つの日付がある。男の紙には、ひとつしかない。そのひとつが、完全に一致していた。読めるものは、すべて一致している——一致しないものは、読めない場所にある。反証は、摩耗の中に沈んでいた。
精密は、誠実の顔をしている。狂いなくまっすぐな糊の封筒を、彼女は一度、信じたことがある。あの封筒は、ほんとうのことを運んできた。精密なものを疑う筋肉が、彼女の中で、あれ以来すこし痩せていた。
簡易共鳴は、翌週に組まれた。
男の連れてきた査定人は、退職者だと名乗った。移転を始めて、根づく前に止める。それだけの試験に、彼女は初めて、裂けを払った。中断の瞬間、胸の奥で何かが薄く裂けた。講習の言葉のとおり、裂けは音がしなかった。音のかわりに、しばらく息が浅くなった。
「R、八」と査定人は読み上げた。「……高いですよ。血縁帯です」
R七から上は血縁帯、と業界では言う。彼女は十四、という数字を思い出していた。立会室の夫婦の、あの十四。
「十四には、届かないんですね」
「摩耗です」と男が言った。「流通で摩れれば、Rも下がります。三度渡って八が出るのは、むしろ」
むしろ、の続きを、男は言わなかった。言わない場所に、彼女が自分で言葉を置いた。
熊谷の話が、そこにいた。三年でよその手を三つ通った、本物の息子のぶん。呼んでも、知っている動きをしなかった、本物。摩耗した本物は、深まれない。深まらないことは、もう、偽物の証拠ではないのだ。
ちがう子、と書いて確かめる方法を、彼女はひとつ持っていた。その方法が、この春から、効かなくなっていた。
値は、三百二十万だった。
封筒の百八十二万と、残高のぜんぶを頭金にして、残りは月々の証文になった。書けない金と書ける金が、同じ判の下で混ざった。手帳の事務の一行が、また一段、嘘に近づいた。分かっていて、押した。
引き取りは、桜の咲きはじめの週だった。八十四悼。座りは、胸骨の裏と、両腕——のはずの場所から、半寸ずれていた。ずれを、彼女は個体差と読んだ。八十四人いれば、八十四の座りかたがある。娘の座りを、彼女はほんとうは知らない。知らないことが、この春は、都合よく働いた。
同居は、幸福に似た数週間になった。
桜の下を、コロッケ屋の道で帰った。半分に割ったコロッケの、残りの半分を、家まで持って帰らなくなった。歩きながら、両腕に向かって食べさせるふりをした。往来で、四十の女がやることではなかった。やった。
麦茶は、ふたつ注いだ。手は、止まらなかった。止まらない手が、幸福に似ていた。ふたつ目は、時間をかけて、自分で飲んだ。娘の係を、娘のぶんまで。
曲も、毎晩流した。つっかえる小節のところで、両腕の奥が動く——気がした。
四月八日の朝が来た。入学式の日付だった。
彼女は夜明け前から起きて、待った。六時を過ぎたころ、両腕の奥で、何かが動いた。気がした。
手帳に、動いた、気がした、と書いた。
それから、気がした、を線で消して、動いた、と書き直した。
棄却、を消して、ちがう子、と書き直した冬の夜と、同じ鉛筆だった。書き直す向きだけが、逆になっていた。消した線の下で、気がした、はまだ読めた。読めることには、気づかないことにした。
夜、桜の終わりかけの道を歩いて帰りながら、彼女は両腕の重さに、小さく、ただいま、と言った。
返事の代わりに、重さは、いつもの大きさで揺れた。いつもの大きさ。同じ大きさ。——摩耗した本物は、深まれない。呪文のように、それを胸の中で唱えた。唱えるたび、呪文は効いた。
手帳の隅に、のこり九二日、と書いた。
初めて、その数字が、足りる長さに見えた。足りる、と思える夜が幸福に似ていることを、彼女は十七ヶ月ぶりに思い出していた。