第十六章 端数
常喪二六年四月一七日(金) 雨 引受なし 残枠四九九 残高一八、六五〇円 メイ七〇二、〇〇〇円/悼
正式の照合を頼みに行ったのは、疑うためではなかった。疑いを、終わらせるためだった。
手帳の消した線の下で、気がした、はまだ読めた。読めるうちは、終わっていない。認証が出れば、線ごと消える。彼女は第三査定センターに、所有ロットの由来照合を申請した。持ち主のいる悲嘆の認証は、身代金の心配が要らない。八十四悼を三日、預けた。受入の窓口に、宇津木が立っていた。
三日目に、呼ばれた。
白い相談室で、宇津木は書類を出さなかった。手ぶらで座って、彼女が座るのを待って、言った。
「違います」
「……何が、ですか」
「これは、あなたのお子さんのものでは、ありません」
雨の音が、窓の外で増えた。
「照合の結果票は」と彼女は言った。「数値で、いただけますか」
「結果票には、判定保留、と書きます。数値は、揺れの範囲です。書類の上では、違うとも合うとも言えません」
「なら、なぜ」
宇津木は、自分の指を見ていた。見えない糸巻きを締める、あの動きが、止まっていた。止めているのだと、分かった。
「本物は」と彼は言った。「同じ小節で、つっかえる」
部屋から、音がなくなった。
それを知っているのは、この世界で彼女だけのはずだった。彼女と——七十二時間、娘の悲しみを預かった者だけの、はずだった。
「聞いて、いたんですね」
「聞いていました」と宇津木は言った。「規程の外で」
それから彼は、住所を書いた紙を寄越した。話は、ここでは終われません。夜、来てください。規程の中では、これ以上ひとことも言えない——紙の字は、狂いなくまっすぐだった。
アパートの一室は、防音の部屋だった。
元は調律の工房だったという。壁に工具が掛かり、部屋の奥に、アップライトのピアノが一台。蓋は閉じて、鍵盤の上に布が掛けてあった。長く、弾いていない置き方だった。
宇津木は茶も出さずに、立ったまま、順番に話した。演奏の順番で話すのだと、あとから彼女は思った。
「受け入れは、十一月の四日でした。九六・〇悼。私が読んだ中で、いちばん重い子喪失でした。規程では、等級に要る項目だけ読んで、七十二時間以内に返す。……六十時間めに、それが来ました。粒の中に、ピアノがあった。子どもの、練習の音でした。同じ小節まで来て、つっかえて、止まって、すこし戻って、また同じ場所でつっかえた」
指が、宙で半音ぶん、動いた。
「調律師は、音の癖で楽器を覚えます。私は、その癖を聴き続けました。項目は読み終わっていました。返せた。返さなかった。七十二時間を、九時間、超えました。……その九時間のあいだに、再分類の書類が、通っていました」
「誰の判で」
「管理経路の判です。それ以上は、私の口では、罪の名前になる。……気づいたのは、返却処理のときです。タグの欄が、死んでいた。声を上げれば、九時間の遅滞が出る。遅滞が出れば、私は査定人でいられない。私は」
彼はそこで、初めて椅子に座った。
「黙りました」
事故では、なかった。少なくとも、黙認だった。彼女は、怒りの置き場所を探した。目の前の男は、置き場所として、正しすぎるほど正しかった。正しすぎて、置けなかった。この男が九時間、規程を破って娘の音を聴いていなければ、書類の通る隙間は、なかったかもしれない。この男が娘の音を聴いていなければ、今夜、違います、と言える者は、世界にいなかった。罪と羅針盤が、同じ九時間から生まれていた。
「端数の話を、します」と宇津木は言った。
「査定の一時移転は、返すときに、ごくわずかに残る。剥離、と言います。規程では、残った端数は速やかに拡散処理する。……私は、十四年、していません。ぜんぶ、ここにあります」
彼は自分の胸の、真ん中を指した。
「千と少し。米粒ほどのが、千。夜に、ひとつずつ、確かめます。悼んでいるのではありません。調律です。狂っていないか、消えかけていないか、ひとつずつ鳴らして、締めて、戻す。それだけを、十四年やっています。……あなたのお子さんの粒も、あります。今夜の照合は、それとやりました。お預かりした八十四悼の中に、ピアノは、ありません。粒の質も違う。あれは——うまく言えませんが、人を喪った悲しみではない気がする。あの人は、自分の、何かを喪っている」
「でも、Rは八、出たんです」
「……それは、私にも分かりません」
分からない、が、この夜いちばん誠実な言葉に聞こえた。八の謎だけが、解けずに残った。残った謎は、冷たい石のように、鞄の底に沈んだ。
「娘は、メイですか」と彼女は訊いた。
宇津木は、すこし黙った。それから、査定人の声に戻って言った。
「九六・〇、単一由来九七。あの数字のまま出ている玉は、メイだけです。混載で割られれば、数字は濁る。……あなたのが出て行った週、無主の待機列には、ほかに二件しかいませんでした。混載を組む数が、なかった。あれは、割られずに出ています。断言は、できません。台帳は白紙です。ただ、私は」
「あなたは」
「ずっと、メイだと思って、相場を見ていました。毎朝」
毎朝、という言葉のところで、彼女は目を閉じた。天気予報を見ていたのは、彼女だけではなかった。
帰り際、玄関で、彼女は言った。
「粒を、持っていてください。消さないで」
「……規程では、とうに消していなければならないものです」
「知っています」
「持っています」
外は、まだ雨だった。傘の中で、彼女は今日の日付の重さを量った。兄弟候補は、尽きた。一号は、ちがう子。二号は、よその子。三号は、子ですらないかもしれない何か。残ったのは、メイと、九時間の告白と、解けない八だった。
探す、は今日で終わった。あしたからは、突き止める、だった。
のこり、八三日。