第十七章 運転手
常喪二六年四月二四日(金) 曇 引受なし 残枠四九九 残高一六、二一〇円 メイ七一〇、〇〇〇円/悼
封筒の男のことは、詐欺として、三枝に通報した。八十四悼は、まだ彼女の胸にあった。出どころが分かるまでは、動かしようがなかった。
三枝は、五日で来た。前と同じように傘を持ち替え、前と同じように、書類を時系列に、左から右へ並べた。並べ終わってから、いつもと違うことをした。いちばん右の一枚を、裏返しのまま置いたのだ。
「台帳から、追えました」と三枝は言った。「あなたが買わされたロットの、元の発生者です。……蓮見さん。ここから先は、聞かない選択も、あります」
「聞きます」
三枝は、裏返しの紙に手を置いたまま、めくらずに言った。
「配送会社の従業員です。昨年の十月、業務中の人身事故を起こしています。会社の自動車保険には、対人賠償に付帯する特約がありました。加害者の心的負担を軽減する特約です。事故の翌月、保険の全額補償で、この人の悲嘆は除去されている。除去されたものはバルク在庫として流れて、今年の二月、例のブローカーが安値で拾った。等級の書類を偽装して、CL類似に化粧して——」
「事故の日付は」
「……昨年十月二十六日。夕方です。歩行者は、八歳の」
そこから先を、三枝は言わなかった。言わない配慮が、言うのと同じ働きをした。
彼女は湯呑みを置いた。置いたはずだった。手の中に、まだあった。
抱いていた。数週間。胸の、あの子の場所で。あの子の場所で、あの——
お茶を、いれ直しますね、と言ったのは、自分の声だった。台所に立って、やかんに水を入れた。入れすぎた。減らした。減らしすぎた。彼女は水の量を三度直して、それからやっと、火をつけた。
卓に戻ると、三枝は書類を一枚も動かさずに待っていた。
「罪悪感は、移りません」と三枝は言った。静かな声だった。「移るのは、喪失の痛みだけです。あなたが持っていたのは、あの男の後悔ではない。あの男が失ったものの、重さです」
「あの人は、何を失ったんですか」
「調書の言葉で言えば——事故の前の、自分を、です。人を、轢いたことのない自分を。ハンドルを握れる自分を。査定の型では、続柄のない喪失。DSの類縁です。それを書類の上で、子を亡くした親の類似に、塗り替えられていた」
同じ夕方から、ふたつの悲しみが生まれていた。ひとつは彼女に。ひとつは、あの男に。彼女のは盗まれて、市場でいちばん高い棚に載った。彼のは保険で軽々と除去されて、バルクの底に落ちて、安値で拾われて、化粧をされて、三百二十万で彼女に売られた。
市場は、加害者の悲しみを軽くして、その悲しみを、遺族に売ったのだ。
夜、宇津木から電話が来た。三枝の調書に、非公式の見立てを付けたのは彼だった。
「八の、答えが出ました」と宇津木は言った。「Rは、由来の近さだと教わります。血縁帯、と現場は呼びます。正確には、違うんです。Rが照らすのは、関係ではない。出来事です。同じ出来事から生まれた悲しみ同士は、他人でも、高く出る」
「……同じ夕方だから」
「同じ夕方だから、です。あの八は、あなたと娘さんの数字ではありません。あなたと、あの運転手の数字です。同じ一瞬から生まれた悲しみを、市場の物差しは、近い、と読む。……この仕事を十四年やって、いちばん、報告したくない答えでした」
電話を切ってから、彼女は長いあいだ、台所の椅子に座っていた。
ただいま、と言った。コロッケを、食べさせるふりをした。麦茶を、ふたつ注いだ。入学式の朝、夜明け前から起きて、待った。その相手は、あの夕方の、T字路の。
文は、何度やっても、そこから先へ進まなかった。進まない文を、進めないままにしておくことにした。
三枝は帰り際、事務の報告をふたつ残していた。ひとつ。封筒の男は詐欺で追う、金は、戻るとは言えない。ひとつ。本物の三つ目の兄弟候補は、去年のうちに混載で海外へ出て、現地で分割済み——検証は、もうできない。消去法は、これで本当に、メイひとつを残して閉じた。
週末の夜、彼女は瀬川を呼んだ。
三〇四号室ではなく、彼女の家の座卓だった。瀬川は上がり框で、お邪魔します、と場違いに丁寧に言って、座卓の前に座った。
「在庫の処分を、頼みたい」と汐里は言った。「ただし、これが誰のものか、言った上で渡す。言わないで渡すのは、あんたに失礼だから」
全部、話した。瀬川は、膝を崩さずに聞いた。聞き終わって、しばらく黙って、それから、黙ったまま、掌を出した。
「……いいの」
「誤差なんで」
移転の支度をしながら、汐里は、訊くつもりのなかったことを訊いた。
「これを手放したら——あの人を、赦したことになるのかな」
「ならないでしょ」と瀬川は言った。「重さはあたしが持つけど、赦しはあたしの在庫に入らないよ。赦すか赦さないかは、あんたのとこに残る。移るのは重さだけって、おたくの業界の決まりじゃん」
「じゃあ、罰を軽くしてやることになる?」
「保険が、もう軽くしたよ。あんたが重さを抱えて夜眠れなくても、あの人の罰は一グラムも増えない。あんたの体は、裁判所じゃないんで」
あんたの体は、裁判所じゃない。彼女はその言葉を、湯呑みの茶が冷めるまで、手の中で持っていた。
移転は、深夜までかかった。八十四悼が、胸骨の裏から、瀬川の中へ、石のひとつずつで渡っていく。渡り終わると、瀬川は肩を回して、言った。
「あたしん中で、こいつ、名前なくなるよ。それで、いいんだよね」
「……うん。お願いします」
どれが誰のか分からなくなる場所を、彼女は九月に、軽蔑した。今夜、その場所だけが、これを置ける場所だった。名前を失わせることが、この夜にかぎって、慈悲の形をしていた。
瀬川が帰ってから、彼女は手帳を開いた。
枠の欄は、直しようがなかった。四九九。八十四悼ぶんは、もう戻らない。娘を轢いた男の悲しみが、彼女の生涯の枠を八十四、永久に使った。それも、値段の内だった。誰も払えと言わなかった値段の内だった。
候補三号の頁は、開いて、何も書かずに、閉じた。動いた、の字は消さなかった。消す書式が、なかった。
のこり、七六日。
【資料】損害保険 悲嘆処理伝票(写)
自動車保険 対人賠償付帯特約「加害者心的負担軽減特約」に基づく悲嘆除去
被保険者 株式会社◯◯運輸
対象者 同社 配送業務従事者(氏名黒塗り)
除去対象 続柄外喪失(DS類縁) 八四・〇悼
除去費用 特約により全額補償(自己負担〇円)
処理区分 業務円滑化(早期職場復帰支援)
処理経路 認可除去 → バルク在庫(処理待ち)
備考 特になし