第十八章 移対

  常喪二六年五月一一日(月) 晴 引受一件一二悼 残枠四八七 残高三二、四五〇円 メイ七〇五、〇〇〇円/悼

 呼び出しは、今度は署からだった。移転対策課は四階の奥で、相談室は査定センターのそれより狭く、茶は紙コップで出た。

 「三つ、報告があります」と三枝は言った。「ひとつは、査定人の件です。返却記録に、九時間の遅滞が残っていました。理由を書ける者は、世界にひとりしかいない。供述を求めました」

 「……彼は」

 「応じると言いました。条件も、取引も、なしで」

 彼女は紙コップを持ったまま、防音の部屋の、布の掛かった鍵盤を思った。応じれば、彼は査定人でいられない。いられなくなる話を、条件なしで、と言う男だった。

 「ふたつめ。桐山遼子に、任意で話を聞きました」

 三枝は書類を一枚めくった。

 「再分類の指示系統について、否定も肯定もしない。ただ、動機を訊いたときだけ、はっきり答えました。会社の値段のためですか、それともあなたの信念ですか、と訊いたんです。——どちらでもあるし、どちらでもいいでしょう、と」

 どちらでもあるし、どちらでもいいでしょう。

 彼女はその言葉を、応接室の白い箱の中に置いてみた。置くと、収まった。恐ろしいほど、収まりのいい言葉だった。憎むための取っ手のない人は、罪の取っ手も、身につけていなかった。

 「みっつめ。旗艦、という言葉の意味が分かりました」

 三枝は、図を描いた。ヨスガ。レーテHD。その金融子会社。サルベージ競売。矢印がひとまわりして、元の場所に戻ってくる図だった。

 「無主化したロットを、レーテの子会社が競売で身内落札する。組成して、上場して、値をつけて——その値ごと、ヨスガの買収対価に組み込む。買収の目玉です。目論見もくろみの中で、あのロットは、旗艦、と呼ばれていました。うちの内偵が動いて、気配を察して、手放した。手放した先が、いまの保有者です」

 娘は、会社の値段の一部になるはずだった。

 旗艦。廊下で拾った言葉が、七ヶ月遅れで、意味を持って刺さった。骨壺のほかに要らない箱の、いちばん立派なやつを、彼らは用意していたのだ。

 「それで」と三枝は言って、書類を閉じた。閉じてから、閉じた書類の上に手を置いた。

 「蓮見さん。あなたの台帳の話をします。この半年で、あなたは百七十五悼、買い入れている。九十一と、八十四。移転で入った記録はある。出た記録が、ない。いまのあなたの体に、その重さは、ない」

 紙コップの茶が、冷めていた。彼女は、言い訳の在庫を探さなかった。この男の前で探しても、無駄だからだ。

 「訊かなければならない日が、来るかもしれません」と三枝は言った。「きょうでは、ありません」

 「……なぜ、きょうではないんですか」

 三枝はしばらく黙って、それから、財布を出した。

 四つに畳んだ、古い、角の丸くなった紙。いつか出しかけて、戻した紙だった。今度は、最後まで出した。開かずに、卓の上に置いた。

 「二十一年前、部下が殉職しました。二十四の巡査です。私の指示で行かせた現場で、でした。発生は、三十八悼。……当時、警察には内規がありました。捜査員の悲嘆は、捜査に支障を来すとき、公務として除去できる。葬儀の翌日に、書類が来ました。私は判を押しています。押した記憶が、ないんです。あるのは、判を見ている自分の手の、記憶だけで」

 紙の折り目は、白く磨り減っていた。

 「法則は、私の中の何かを、承知と読みました。ショックの底の、諦めのようなものを。取り消しは七日以内、と約款にありました。……八日目に、正気が戻りました」

 この条項が使われたことのないのを、彼女は知っている。八日目の男が、目の前で、紙コップの茶を飲んでいた。

 「あれの行き先は、台帳では追えます。集約されて、南へ出て、いまはたぶん、島の誰かの中です。追って、どうするのか。二十年考えて、分からないままです。分からないまま、数だけ数えている。……秤係というのは、そういう係です」

 彼は紙を畳み直して、財布に戻した。

 「もうひとつだけ、仕事の話を。立件して、裁判所があのロットを証拠として押収する、とします。押収した悲嘆は、どこに置くと思いますか」

 「……保管所、では」

 「保管所は民間です。差押えの手続に、悲嘆の枠がない。倉庫は、物のための言葉です。悲嘆を押収するなら、国は、それを持つ人間を雇わなければならない。証拠室は、人間なんです。この論点で、検察と三度、喧嘩をしています。三度とも、負けています」

 帰り際、三枝は初めて、書類を時系列に並べ直さず、無造作に鞄へ戻した。順番の要らない話を今日はした、ということかもしれなかった。

 ドアのところで、彼は言った。

 「あなたの百七十五悼を、私はまだ量り終えていません。量り終えるまでは、事実と呼ばない流儀です。……急いで、済ませなさい。私が量り終える前に」

 のこり、五九日。