第二十一章 過悲死ライン
常喪二六年六月一五日(月) 晴 引受二件一〇悼 残枠四三七 残高六八、三三〇円 メイ六四八、〇〇〇円/悼
六月に入ってから、彼女は朝と夕方に一件ずつ、引き受けるようになった。
証文の月々があった。裁判の実費があった。立会のたびの交通費と、生活の底の穴があった。金の理由は数えれば足りたが、ほんとうの理由は、数えられない場所にもあった。体を重さで埋めている夜は、考える場所が、狭くて済んだ。
この一ヶ月の取込が、四十を越えた。
四十悼。直前一ヶ月にそれを越えた引受人が倒れたとき、労災は過悲死と認める——その基準の線を、彼女は自分の足で、静かにまたいだ。娘の流出は労災査定の穴から始まって、その母親はいま、労災基準の上を歩いている。皮肉の形が、あまりに整いすぎていて、誰にも話す気になれなかった。
体より先に、耳が濁った。
夜、つっかえる小節を思い出そうとすると、途中で別の音が混ざるようになった。先週引き受けた誰かの、規則正しい足音。おとといの誰かの、雨戸の軋み。他人の粒は、それぞれの音を持っていて、増えるほど、部屋は雑踏になった。娘の音の輪郭を、雑踏がすこしずつ、上書きしていく。羅針盤は紙の上に無事でも、紙を読む彼女の側が、摩れはじめていた。
週の半ば、弁護士との電話で、次回期日の話をした。
「娘の悲嘆は——」
と、彼女は言った。言って、気づいた。悲嘆。査定の言葉。市場の言葉。娘に、一度も使ったことのなかった言葉。
言い直さなかった。言い直す力が、その日は残っていなかった。電話を切ってから、台所で長いあいだ、手を洗った。落ちる汚れでは、なかった。
協会からの封書は、金曜に来た。
月間取込量が労災認定基準を超過しています。産業医面談を命じます。改善なき場合、就業制限の措置を——
彼女は封書を、手帳の後ろに挟んだ。挟む場所が、そこしかなかった。
週末、娘の部屋で、学習机のいちばん深い抽斗を開けた。
発表会のプログラムが、出てきた。
行けない、と告げたあの発表会の。娘の名前が、演目の三番目にあった。曲名も、印刷されていた。彼女はそれを読んだ。読んで、閉じた。曲の名前は、この二十ヶ月、思い出さないままでいられたのに、活字は、一瞬で読めてしまった。
裏に、客席の図が刷ってあった。
前から三列目の、通路寄りのひとつに、鉛筆で丸がしてあった。丸の横に、小さい字で、おかあさん、と書いてあった。
断られたあとの席は、消されていなかった。消しゴムの跡も、なかった。娘は、丸をつけたまま、あの週を終えたのだった。
彼女はプログラムを、かんさつノートの横に置いた。娘の帳簿の隣が、この家でいちばん、正しい置き場所だった。
闇の夜は、日曜だった。
三〇四号室に、三人がいた。瀬川と、彼女と、宇津木。組み合わせとしては、この世界のどの書式にも載らない三人だった。
言い出したのは、彼女だった。八十四悼を負わせた相手の、体の総量が、ずっと気になっていた。量ってもらうだけでいい、と頼むと、瀬川は、べつにいいけど、と言った。宇津木は、規程外です、と言ってから、来た。規程外、が断り文句ではなくなっている男だった。
検分は、触れて読む簡易のやり方だった。宇津木は瀬川の背中に掌を当てて、長いあいだ、目を閉じていた。
「……多いです。数えたくないほど」と彼は言った。「若い体だから、持っている。持てることと、いいことは、別ですが」
「説教は追加料金なんで」と瀬川は言った。
宇津木の掌が、途中で、止まった。
「これは……古い。齢十年。きょうだいの型です。SB。発火は、夏——八月の、半ばあたり」
瀬川の顔から、退屈が消えた。
「……それ、客の。昔の客の」
「預かりものは、ふつう、持ち主の記憶と切れています」と宇津木は言った。「これは、切れていない気がする。……瀬川さん。十年前に、どなたか」
長い沈黙のあと、瀬川は、部屋の消えない歌詞のほうを見たまま言った。
「弟。あたしが十六のとき」
「断定は、できません」と宇津木は言った。「確かめる方法は、世界にひとつで、それは、あなただけが持っています」
瀬川は、しばらく動かなかった。それから、口の中で、名前を言った。十年ぶんの埃を払うような言い方だった。
言って、動かなくなった。
「……いま」
「うん」と瀬川は言った。「動いた。奥で」
もう一度、今度はすこしだけ声に出して、呼んだ。
揺れは、深くなった。こだまの大きさが決まっている残響とは、違った。呼ぶたびに、下へ降りていく動きだった。三度目で、瀬川は呼ぶのをやめて、両手で自分の膝を掴んだ。掴んだまま、何も言わなかった。何も言わない顔が、この夜の、いちばん大きな音だった。
本物の応えを、彼女は初めて、他人の体で見た。
こういうものか、と思った。こういうものなら、残響と見間違えようが、なかった。五週間のグラスも、桜の道のただいまも、あれは、これでは、なかった。
どれが誰のか分からない在庫の中に、ひとつだけ、誰のものか分かるものがあった。名を失わせる場所で、名がひとつ、帰ってくるのを、彼女は見た。自分の悲しみを他人の山から探している女の前で、他人の山を体に積んだ女が、自分の悲しみを、掘り当てていた。
帰り道、夜気の中で、彼女は思った。羨む気持ちは、あった。あったが、それより大きいものもあった。あの部屋で、応え、は実在した。実在するものなら、待っていい。
のこり、二四日。