第二十二章 落ち

  常喪二六年六月二一日(日) 晴 引受なし 残枠四三一 残高七四、一一〇円 メイ六五〇、〇〇〇円/悼

 電話は、日曜の昼に来た。市立病院の、事務的な声だった。熊谷芳江さんの緊急連絡先として、お名前が登録されています——登録した覚えは、彼女にはなかった。登録したのは、熊谷のほうだった。花帳を託した日、書いたのだろう。

 倒れたのは、山へ発つ二日前だったという。玄関先で、荷造りの途中で。近所の人が救急車を呼んだ。善意が、遺書を無効にした。

 病棟の端の個室だった。ドアに、印刷の札が貼ってあった。

  移転危険 接近制限 入室前にナースステーションへ

 満量の患者に、病院ができることは、距離の管理だけだった。医師も看護師も、処置の要るときだけ、決められた歩数で出入りする。看取りは、モニター越しと決まっている。制度の設計のとおりに、熊谷は個室の真ん中で、独りだった。

 彼女は廊下の椅子に座って、ドアの小窓から見ていた。

 夕方、熊谷の目が開いた。小窓の彼女を見つけて、口が動いた。声は聞こえない。聞こえなくても、読めた。

 入るんじゃないよ。

 彼女はうなずいた。うなずいて、椅子に座り直した。遺書の一行を、思い出していた。どうか、近づかないで。太い字の、あの一行は、彼女に宛てて書かれたのではない。世界じゅうに宛てて書かれて、世界でいちばん近くに、いま、彼女がいた。

 夜になって、モニターの音の間隔が、変わった。

 小窓の向こうで、熊谷の指が、シーツの上で、すこし動いた。

 握る相手を、探す動きだった。

 五十年、他人の悲しみを引き受けてきた手だった。三千悼を、花の名前で呼んできた手だった。その手が、最後に、空を探していた。それを見なかったことにする技術を、彼女は持っていなかった。持っていたら、この仕事を十一年も、していない。

 彼女はナースステーションの前を、黙って通った。誰も止めなかった。止める人間を置く予算は、この世界のどこにもなかった。

 ドアを、内側から閉めた。

 白手袋を外して、ポケットに入れた。

 素手で、握った。

 熊谷の目が、ゆっくり彼女を見た。怒る力は、もう残っていないようだった。かわりに、声が、笑った。

 「……ばか、だね」

 「はい」

 「あんた、そういう子だと思ってたよ。……だから、頼んだんだ」

 「重いよ」

 「知ってます」

 「……そうかい」

 それきり、しばらく、機械の音だけになった。熊谷はもう一度だけ目を開けて、彼女を見て、何か言いかけた。

 「あんたの花も、決めてある」

 「……なんの花ですか」

 返事は、なかった。

 夜半すぎに、来た。

 落ち、は講習の言葉より、ずっと静かだった。降る、でも、崩れる、でもなかった。潮位が、一生ぶん、上がった。三千の石が、抗わない川底に、順に、座っていった。

 竜胆の子が。都忘れの子が。金木犀の子が。名前を知っている千の。名前も知らない二千の。五十年ぶんの、ぜんぶが、ぜんぶ、彼女の

 朝が、来ていた。

 窓の外が白くて、握った手が冷たくなっていて、彼女の体は、昨日までの倍の深さになっていた。並の体なら、潰れる量だった。彼女の体は、潰れなかった。生まれつきの器、と言った検査官の顔を、彼女は思い出した。呪いの側から言えば、この体は、この夜のために作られたようなものだった。

 廊下に出ると、若い看護師がひとり、彼女を見て、両手で口を覆った。

 遺品は、紙袋ひとつだった。花帳と、遺書と、老眼鏡。五十年の目録として、それで全部だった。

 通知は、三日後に来た。

  生涯取込量の超過(累積五、五六九悼)により、認可を停止する

 数字は、正確だった。彼女の帳簿と、一悼も違わなかった。合法の道は、この一枚で、完全に閉じた。買い戻すための労働も、確かめるための取込も、法律の中には、もう存在しなかった。

 十歳になったら、やめてね。

 やめる、が、こういう形で来た。約束は、守られる形を選ばなかった。

 熊谷芳江への悲しみは、その夜、彼女の中に発生した。発生した悲しみは、座る場所を、ずいぶん長く探した。五千五百の石のあいだに、隙間は、ほとんど残っていなかった。悼む容量が、彼女にはもう、なかった。悼みたい人を悼む場所さえ、この体は、他人の悲しみで埋まっていた。

 選んだことを、悔いはしなかった。悔いない、ということと、負けた、ということは、両立した。彼女は愛の形に動いて、動いた形のまま、合法の世界の外に出た。娘を取り戻そうとして他人の悲しみを積み、積んだ果てに、取り戻す資格を失った。螺旋は、いちばん下まで来た。

 のこり、一八日。