第二十三章 満杯

  常喪二六年六月二二日(月) 曇 引受なし(認可停止) 残高七四、一一〇円 メイ六八二、〇〇〇円/悼

 週明けの朝、天気予報の画面に、見慣れない印がついていた。

 銘柄名の横の、小さい星形。指の腹で触れると、説明が出た。GX50構成銘柄。悲嘆市場の主要五十銘柄で組む指数に、メイが採用されたのだった。

 電話をくれたのは、仲介の男だった。

 「おめでとう、と言うところなんですがね。普通は」と男は言った。「指数に入るってのは、市場の背骨になるってことです。背骨は、抜けない。浮動玉ゼロ——市場に出てくる玉が一枚もない、ってことですがね——そんな銘柄を採用するなんて、聞いたことがない。要するに——重要すぎて、売れない。そういう札が、正式についたんです」

 娘は、市場の基準になった。ほかの悲しみの値段が、これからは娘を物差しに決まっていく。五十の銘柄の並びの中で、娘は動かない一本の柱として、毎日、平均を支える。

 買い戻したい一口が、市場の背骨になった。抜けない、という言葉を、彼女は電話を切ってからも、長く手の中に持っていた。

 認可停止の通知が来てから、朝のやることが、ひとつずつ減っていた。

 白湯は、まだ飲む。食事を抜く理由は、もうない。手帳の備考欄に、本日の空き容量を書く欄は、書くことがなくなった。十一年、毎朝書いてきた欄だった。数字のない備考欄は、白い歯抜けの並びになって、それでも彼女は手帳を開くのをやめられなかった。

 講習で、満杯、という言葉を教えたことがある。生涯線量に達した引受人は、以後の取込ができない。教本には、引退、と書いてあった。教えながら、遠い言葉だと思っていた。

 満杯の体には、再就職の市場がなかった。引き受けられない引受人は、資格の一覧のどこにも載らない。彼女にできる仕事は、他人の悲しみを容れることだけで、その容れ物が、いっぱいになった。空きが職能で、空きが尽きた。求人誌を一冊めくって、閉じた。載っている仕事はぜんぶ、体のどこも空けなくてよい仕事だった。

 夜、彼女は座卓に花帳を置いた。

 熊谷の遺品の、紙袋の中の一冊だった。表紙は手垢で飴色になって、綴じ紐は二度、替えた跡があった。

 最初の頁に、几帳面な若い字で、竜胆、と書いてあった。日付は五十年前の秋だった。竜胆の子。五つ。川。母のぶん。それだけの行だった。

 彼女は、声に出して読んだ。

 竜胆の子。

 悼む容量は、彼女の体にもう残っていない。熊谷への悲しみは、あの夜からずっと、座る場所を探して、体の中を立ったまま歩いている。容れられないなら、口に出せばよかった。声は、線量を食わない。読み上げることは、体の外でできる葬送だった。

 都忘れの子。金木犀の子。雪柳の子。頁の途中から、字は熊谷の字になった。若い几帳面さが取れて、太く、迷いのない字になった。花の名前は季節の順ではなく、引き受けた順に並んでいた。誰の悲しみかは、書いていない。書かないことが、この帳面の作法だった。

 一晩では、読み終わらなかった。彼女は栞のかわりに、0えんのレシートの角を、頁に挟みかけて、やめた。あれはあれの場所にある方がよかった。かわりに、めくった所まで、指を置いて覚えた。

 最後の頁は、めくらなかった。

 あんたの花も、決めてある。あの言葉の答えが、最後の頁にあるのかないのか、確かめる勇気は、どちらの答えに対しても、まだなかった。

 桐山遼子が来たのは、水曜の夕方だった。

 喪服ではなく、仕事の服で、玄関に立っていた。強制捜査の報道から、公の場に出ていないはずの人だった。やつれては、いなかった。この人はやつれない、と彼女は思った。やつれは、迷いの出る場所に出る。

 「上がりません。ここで済みます」と桐山は言った。「蓮見さん。会社としてね——」

 通夜の晩と、同じ入り方だった。あのときは、体が先に店じまいをした。いまの彼女の両手には、はめ直す手袋がなかった。認可停止の手に、手袋の理由はもうない。素手の両手を、彼女は前で重ねて、続きを聞いた。

 提案は、書類の形をしていた。スポンサード買戻し、と表紙にあった。

 「あなたの買い戻しに、うちが全額を出します。香月さんとの交渉も、面倒な相手が出てくれば、その対応も、うちの法務がやる。あなたは一円も出さない。一悼も、これ以上引き受けない」

 「引き換えに」と彼女は言った。

 「肖像と、物語です」と桐山は言った。隠さないところが、この人だった。「あなたと娘さんの話を、うちが独占的にお預かりする。CMには、こういう一本を考えています。母親の手元だけが映る。テーブルの上に、悲しみが戻ってくる。最後に一行——私たちは、母に悲しみを返します」

 返します、という言葉を、この人はどの帳簿に載せて言うのだろう、と彼女は思った。

 「よすがは、いま、返す会社にならなければならない。それは経営の話です。同時にね、蓮見さん、私はあなたに返したい。それは本当の話です。ふたつが同じ一本のCMになることを、私は恥じていません。どちらでもあるし——」

 「どちらでもいい」と彼女は言った。「そうおっしゃるんだと、思っていました」

 桐山は、すこしだけ笑った。

 断る、と言おうとした。言おうとして、断る理由が、言葉になっていないことに気がついた。全額。交渉ごと。彼女が二十ヶ月かけて集められなかったものが、書類一枚で揃う。引き換えに出すのは、金ではない。娘の、コロッケの、683日の、くらげの影絵の——あの部屋に何十も仕舞われている、ただそれだけの夜たちの、使用権だった。

 それの何が、いけないのか。

 いけない、と体は言っていた。体は通夜の晩から一貫して言っていた。言っているのは分かるのに、体の言い分を、彼女はまだ、法廷でも玄関先でも通る言葉に、翻訳できなかった。

 「……考えさせてください」

 言ってしまってから、彼女は自分の声に驚いていた。即答を、体は求めていたのに。

 「どうぞ」と桐山は言った。「ただ、市場は考える速さで動きませんよ。それだけは、覚えておいて」

 ドアが閉まって、彼女は長いあいだ、玄関に立っていた。断らなかった自分の声が、廊下にまだ残っている気がした。

 のこり、一七日。

 幕間【資料】

  CM企画案「返す」篇 絵コンテ抜粋(社外秘)

  カット3 母親の手元(顔は映さない)。テーブル。湯呑み。

  カット4 白手袋を、外す。(※本人出演NGの場合は手元モデルで対応可)

  カット5 ナレーション「悲しみが、帰ってくる。」

  カット7 母、涙(※本人NGの場合はカット。手元の震えで代替)

  カット8 ロゴ。コピー「私たちは、母に悲しみを返します。」

  備考 「買い戻し」の語は使用しない(取引想起のため)。「返す」で統一。

  備考 母子の実話性は保持すること。実話性が本件の主資産である。