第二十五章 ジュネーヴ
常喪二六年六月二四日(水) 晴 引受なし(認可停止) 残高六二、六一〇円 メイ六四〇、〇〇〇円/悼
湾岸の倉庫街を、業界の人間はジュネーヴと呼ぶ。海の向こうの、絵と金塊の眠る街の名前だった。関税と、税務と、詮索の止まる場所。届いたのに、着いていないことになっている荷物たちの街。
立会の予約は、検分課の窓口で処理された。遺族保護のための立会権が、この街では、検分手続の一項目だった。彼女の面会は、予備検分の日程表の余白に、原悲者立会(三〇分)、と印字されて挟まっていた。守るための制度が、手続きの部品になる。もう驚かなかった。驚かなくなったことにだけ、まだすこし驚いた。
白い回廊は、長かった。
案内の職員は白手袋で、壁も白く、ドアは等間隔に並んで、番号のほかに区別がなかった。空調の音が、水底のように部屋番号を消していく。三〇七、三〇九、三一一。
三一五の手前で、彼女の足が、止まった。
案内が二歩先で振り返った。「……こちらです。よくお分かりですね」
分かる理由は、届出のできる種類のものではなかった。胸骨の裏の、空いている場所が、ドアの向こうに向かって、静かに傾いていた。北北西は、このドアの向こうで終わっていた。二十ヶ月で初めて、科学の言い分より、体の言い分の方が、番地を知っていた。
部屋は、資料の写真のとおりだった。白い壁。窓のない部屋。寝台と、椅子と、譜面台のように細い机。
机の上に、暦が開いてあった。
保持者の女は、立って迎えた。六十に近いように見えて、名札には、柚木、とあった。喪服だった。六月に、発火暦の日はないはずだった。
「今日は、どなたの」と、彼女は思わず訊いた。
「どなたの、でもありません」と柚木は言った。「立会の日は、着ることにしています。ご遺族がいらっしゃる日は、この子の——」言いかけて、言葉を選び直した。「お預かりしているものの、あらたまった日ですから」
元は幼稚園の先生だったと、柚木は言った。二十年、園にいて、それから、この仕事に来た。理由は言わなかった。訊かなかった。
「朝は、六時に起きます」と柚木は言った。訊かれる前に、日課を申し送る口調だった。「白湯を飲んで、それから、三十分、お預かりしているもののために泣きます。決まりですので」
決まりですので、と言うとき、柚木の声はすこし速くなった。職業として泣く、ということを、この人は恥じても誇ってもいなかった。ただ、遺族の前で口にするときだけ、包み紙が要るのだった。
「発火暦は、いただいた月次のものを、机に置いています。十月二六日。七月九日。四月八日。三月三日。それから、二月九日」
「二月九日は」と彼女は言った。「何の日か、私にも、分からないんです」
柚木は、驚いた顔をした。それから、驚いたことを恥じる顔をした。母親にも分からない日付が、娘の暦にはある。八年の生活の、彼女の知らない抽斗が、暦の上にひとつ、番号だけで開いている。
「……前にお預かりしていた子の話を、してもいいですか」と柚木は言った。
三年、預かった子がいた。発火暦から、誕生日の見当がついた。四月の子だった。三年目の四月、朝から体が知らせるので、台所に立って、気がついたら、ケーキを焼いていた。小さいのを。蝋燭は、立てなかった。何本立てればいいのか、分からなかったから。
「規程違反です」と柚木は言った。手が、膝の上で固くなっていた。「保持者は、お預かりしているものに、私的な感情を持ってはいけない。移転の効率に障るからではありません。……お返しする日が来たとき、手放せなくなるからです。分かっていて、焼きました。焼いて、ひとりで食べて、翌朝、始末書を書きました。始末書には、ケーキとは書けませんでした。書く欄が、ないんです」
彼女は、柚木の膝の上の手を見ていた。
嫉妬に、名前をつけるなら、そうなった。この人は毎朝、娘のために泣ける。彼女は二十ヶ月、一度も泣いていない。泣く係を、市場が彼女から取り上げて、資格を与えて、この部屋に配置した。娘の喪は、赤の他人の生活として、白い部屋で、丁寧に営まれていた。
感謝に、名前をつけても、そうなった。同じ器に、ふたつが注がれて、分離しなかった。
「七月九日が」と柚木は言った。「この子の暦にも、あります。もうすぐです。私はその日——」
言いかけて、柚木は口を閉じた。分割の期日が、その前に来る。閉じた口が、そう言っていた。
帰りぎわ、彼女は訊いた。訊くつもりのなかった訊き方が、口から出た。
「今週は、どうですか」
面会の窓口で、小田島が毎月受け取ってきた申し送り。彼女が毎月、書いて渡してきた書式の口調。それが、自分の口から、訊く側の形で出た。
柚木は、すこし黙って、それから、背筋を伸ばした。
「今週は——湿度の高い晩に、重くなります。よく眠っている日と、そうでない日があります。そうでない日は、私が、そばにいます」
廊下に出るとき、柚木の声が、後ろで小さく言った。独りごとの高さだった。
「……お名前が、あるんですね。この子にも」
彼女は振り向かなかった。振り向いたら、名前を言ってしまいそうだった。名前は、まだ、この街の書式のどこにも渡していない。
回廊の途中の観音開きの部屋の前に、台車が停めてあった。検分用の白布と、番号札の束が載っていた。番号札は一から十二まであって、まだ、どれも使われていなかった。
のこり、一五日。