第二十六章 香月の空洞

  常喪二六年六月二五日(木) 曇 引受なし(認可停止) 残高六〇、八三〇円 メイ六四四、〇〇〇円/悼

 香月商会の保悲庫ほひこは、内陸の、元は酒蔵だった建物にあった。

 応接に通されると、床の間に、花が一輪だけ挿してあった。掛け軸はなかった。掛け軸のあるべき場所に、額に入れた紙が掛けてあって、近づくと、子どもの字で、おとうさんへ、と書いた便箋だった。誰のものかは、訊かなかった。買ったものであることだけは、分かった。

 香月慶吾は、思っていたより小さい男だった。

 「お預かりします、と書きました」と香月は言った。挨拶より先だった。「あの言葉に、嘘はありません。いまも、お預かりしているつもりです。預かりものを、他人に切らせようとしている。それが、いまの私です」

 追証の話を、香月は隠さなかった。数字ごと、机に置いた。置き方が、諦めた者の置き方ではなかった。

 「二十八日までに、埋まらない額ではない。蔵のものを、いくつか手放せば」と香月は言って、それから、長いあいだ黙った。蔵のものを手放す、と言ったときの顔は、追証の話をしたときより、暗かった。

 「なぜ、売らないんですか」と彼女は訊いた。「全部。商売でしょう」

 「商売で買っています。売ったことは、ありません」と香月は言った。「買うとき、私は必ず、九十秒だけお預かりします。掌で。試泣しきゅう、と呼んでいます。行儀の悪い符牒ですが」

 九十秒、掌を当てて、受け取りかけて、返す。移りきる前に手を離せば、悲しみは戻る。そのあいだだけ、他人の悲しみが、彼の体を通る。

 「五十二年生きて、涙は、それでしか出たことがありません」

 香月は、それを恥じる調子もなく言った。事実の置き場所に、事実を置く言い方だった。

 「親に愛された記憶が、私にはないんです。憎まれた記憶も、ない。何もない。帳簿でいえば、残高ゼロではなく——口座がない。そういう育ちの人間が、この市場に来て、何を見たと思いますか。子を亡くした親の悲しみに、値がついている。九十六悼。五千万円。相場は、世界の合意です。世界が、認めている。子どもは、これほどの重さで、愛されうる」

 蔵は、その証明の書庫だった。傷のついたもの、値の崩れたもの、誰も引き取らないもの。買って、預かって、売らない。値が上がるたび、命題は太くなる。子どもは、これほど愛されうる。人は、これほど惜しまれうる。彼が受け取れなかったものの実在を、市場が毎朝、数字で追認してくれる。

 「墓場と呼ぶ人がいます。図書館と言ったのは、私です。どちらも、違うんでしょう。……ここは、証明書の束です」

 彼女は、床の間の便箋を、もう一度見た。おとうさんへ。宛名だけで、本文は畳まれて見えない。この男は本文を読んだのだろうか。読んだのだとしたら、何百回、読んだのだろうか。

 「蓮見さん。メイを、あなたにお返しする道を、ひとつだけ考えました」と香月は言った。

 「うかがいます」

 「金は、要りません。金なら、あなたから取れる額に意味はない。条件は、ひとつです。娘さんの話を、私に聞かせてください。あなたの口から。あなたの言葉で。市場の書式に載らなかった話を、全部」

 部屋が、静かになった。

 「録りません。書きません。誰にも渡しません。私ひとりが、聞く。それだけです」

 彼女は、玄関先の桐山を思い出していた。肖像と、物語。あちらは放送するために欲しがり、こちらは、蔵に仕舞うために欲しがっている。放送と、独り占め。どちらも、娘の夜たちに、引き換えの値をつけている。値の支払先が、世間か、この小さい男の空洞か、それだけが違う。

 何が違うのか。何かが、決定的に違う気もした。この男の欲しがり方は、桐山の企画書より、ずっと飢えの形に近い。飢えている人に食べ物の話をすることと、飢えを商材にすることは、違う。違うはずなのに、その違いを、彼女はまだ、条件、という言葉の前で言えなかった。条件である限り、話は取引だった。娘の夜たちを、彼女はもう、どの取引の枠にも、載せたくなかった。

 「……お断りします」と彼女は言った。

 香月は、うなずいた。断られ慣れた男のうなずき方ではなかった。断られたことのない男が、初めて断られて、断られた意味を、時間をかけて仕舞う動き方だった。

 「あなたは、物語を持っている」と香月は言った。立ち上がった彼女の、背中への言葉だった。「持っていて、痛みの方を、市場に奪われた。私は、痛みなら持っています。五十二年ぶんの。物語が、一行もない。……あなたの断り方は、正しいですよ。物語は、条件で渡すものじゃない。それくらいは、買い続けてきたから、分かるんです」

 分かっていて、条件を出したんですか、と訊きかけて、やめた。訊けば、この男の空洞に、もう一歩入ってしまう。入れば、憎めなくなる。憎まずにいられる相手が、この世界には、もう数えるほどしか残っていなかった。香月を、その並びに置きたくなかった。置けば、二十八日の部屋で、彼女は誰に対して立てばいいのか、分からなくなる。

 夜、帰宅すると、郵便受けに、白い封筒が入っていた。

 差出人は、フリーポートの管理法人気付で、柚木、とだけあった。

  近況を申し送ります。

  今週は、湿度の高い晩が二晩ありました。二晩とも、そばにおりました。

  昨晩はよく眠っています。今朝は、軽いままでした。

  変わったことがあれば、また申し送ります。

  なお、前回のお尋ねの件、あれから毎日、考えております。

  お名前を、私は存じません。存じませんが、お呼びするとき、

  心の中で、この子、とお呼びしています。差し支えがあれば、お知らせください。

 書式は、彼女が十一年、面会の窓口で書いてきた書式だった。申し送りの作法が、二十ヶ月かけて世界を一周して、逆向きに、彼女の郵便受けへ帰ってきた。

 差し支えは、なかった。この子、で差し支えは、何もなかった。

 便箋を、手帳の数字の頁に挟んだ。0えんのレシートの、隣だった。

 のこり、一四日。